では最初の問題点に戻ります。
「たましいが豊かになるとは具体的にどういうことなのか?」ですね。誰でもここがもうひとつわからないから生きる意味がわからないのです。非常に大切なところです。
まずわかりやすいようにごく簡単に説明してみます。たましいが豊かになるとは、「ある迷いの霊が、救われたい、悟りを得たいと、願い(これが菩提心・信仰の心です)それを救おうとしている精霊によって悟りを得て、真理を得て、つまり無明が光明となって中心の神の光の中に飛び込んで行く。それにより中心の丸い光が少し大きくなる。あるいは輝きが増す。」これがたましいが豊かになるということの簡単な説明です。
これだったら大体のイメージが浮かぶのではないでしょうか。仏教の到彼岸ということばに当たると思います。光の世界に渡る、到るということです。
仏教の悟りとは真理を悟ることです。迷いから悟りへと言いましたが色々な言い方ができます。「迷いとその救済、無明から光明、無知から知、非真理から真理」などです。
ここで仏教用語ではない「真理ではない霊が真理になる」ということばを使って説明して行こうと思います。あるいは「無知から真理」でもいいです。
では真理ではない霊、真理を知らない無知な霊とは具体的にどのような霊でしょうか。
多分みなさんも納得してくれると思うのですが、たとえば憎しみの心、暴力的な心、差別的な心、傲慢な心、悪口を言う心、ねたみの心、思い通りにいかないと腹を立てる心など他を排斥するような心はどれも真理を知らない無知な迷いの霊と言えるでしょうね。
他を排斥するほど悪質ではなくとも、文字通り道理を知らない無知な心や自分と他を分けて自我に執着する心、たとえば他より優れた存在でありたい、というような心も非真理の心ですね。
あと前にも言いましたように、食べたい、飲みたい、風呂に入りたいなどの何かを求める心はみな迷いの霊であると言えます。
このような真理ではない迷いの霊が潜在意識の中に無数に存在するのですが、あること自体は悪ではないと私は考えます。悪というのは暴力とか差別などの他を排斥する心を意識の世界で実現してしまったり、過度に物事を求めたりすることであって、潜在意識の中にあること自体は決して悪ではない主張します。
あと大切なことですが、これらの迷いの霊は全部が肉体を自分だと思っています。霊魂の奥底の神がわざわざ迷いの霊に肉体を自分と思うようにさせているのです。理由は救うためです。救うための一つの方法、方便でもって神がそのような在り方にしています。
どの迷いの霊もその肉体を自分だと思うので統一されていつも自我意識なのです。前に、色々な霊が集まった存在なのに我々という思いにならないのはなぜかという疑問がありましたが、その答えになると思います。
このことは決してこじつけではなく、これから悟りを具体的な出来事で説明して行けば、神の方便の巧みさを納得してもらえると思っています。