キリスト教では神の人間に対する愛をアガペーと言いますよね。仏教は仏の慈悲と言います。また時々は大悲と言ってあわれみの心を強調します。
キリスト教の勉強を始めてしばらく経った頃あるクリスチャンが「キリスト教の神の愛には仏教の言うようなあわれみという心はない」と私に言いました。その人は牧師で、何かはつきりと、そこは仏教と違うと言いたかったようでした。私は愛と慈悲だったらそんなに違うこともないんじゃないかとあまり深く考えませんでした。
それからしばらくして思想関係の本の中で同じような発言を見つけました。西洋のある仏教研究者が「キリスト教の神の愛にはあわれみの心というものはない。神はただただ人間を愛するのであってこの点でキリスト教は仏教に勝っている。」と言っていました。
それでこれは神学的にかなり重要なことを言おうとしているのではないかと思いました。そしてしばらく考えてから多分こういうことだろうと思ったのですがどうでしょうか。
キリスト教では全知全能で善であり愛でもある神が無からこの宇宙のすべてを創造したとしていますよね。輝かしい栄光の存在が無から何かを作るとき、わざわざ憐れみをかけるような存在を作ることはしないということなのでしょう、多分。
東洋は無というものをそう単純には考えません。前にも言いましたが、空無の中には無明は無いがしかしまた無明が尽きることもないと捉えるのです。我々の心の中には確かに暴力、差別、憎しみなどの無明がありますよね。アダムとイブが罪を犯す前から潜在的にはあります。
その潜在的にある無明に対して神はあわれみの心をいだき救おうとして慈愛の心で教え育むのです。
この点で仏教の慈悲の心の方がはるかに勝っていると私は思います。
生きる意味、人生の目的についてはこのブログの第一話から第四三話までで説明しました。試しに読んでみてください。