新約聖書のヨハネの黙示録に関しては以前「死者の書」ではないかと問題提起しました。ある個人が死んで行くときに経験する精神的現象で、仏教の「チベットの死者の書」と基本的に同じものであると。
もちろん私は生死の境目を経験したことはありませんから詳細に説明することなど全くできません。ただ前に書いたこととは別にひとつ気がついたことがあります。
現代の聖書学者に「ヨハネの黙示録に出てくる場所や建物は直接名前を言ってはいないが、実はローマの街の様子なのだ。名前を出して非難すると迫害される怖れがあるので名前を云わず、代わりに大バビロンとかバビロンの淫婦という名を使って様々に非難し断罪しているのだ」と解説している人がいます。
私の解釈は異なります。はっきりとローマを非難しているし、それとバビロンは結びついている。何で結びついているかというと文明です。あの時代あの世界では文明の最先端は何と云ってもローマです。東は漢の都でしょうか。
文明の発祥地はメソポタミアであり、バビロンの辺りです。大淫婦と云うのは偽の知恵ということです。フィロソフィアと言うように本当の知恵の女神はソフィアです。ソフィアと結ばれるのではなく、偽の女神である大バビロン(禁断の知恵の木の実)と結ばれることによって発生したのが文明です。
したがってイエス・キリストははっきりと文明を否定していると私は思います。文明を称賛しているような言葉も全く見当たらないようです。
ルネッサンスの頃でしたか、多くの知識人が人間の理性を強調するようになって、それを批判した司祭が迫害者として非難されたそうですが、その司祭はいわゆる人間理性の危うさを知っていたのだと思われます。