kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

666 ヨハネの黙示録

何といってもキリスト教世界がこの数百年世界の先頭に立って進んできたので、キリスト教のことも勉強しようと思い勉強をしてきたのですが、途中からはマルキオンと同じようにイエス・キリストの示す神と旧約の神は違うと思うようになりました。

但し旧約の神とはモーセとその後継者の神です。旧約には多くの預言者が出てきますので全部がモーセの神と同じかは私には判断できません。「私は焼き尽くす捧げものなど望んでいない」とモーセの神と異なる預言者もいるようなので。

前にも言いましたようにモーセの律法は「この教えを守れば自分たちが滅びることは決してない、世界の支配者になれる」であり、律法を与えたのは創造神ではなく堕天使ルシファーです。それが私の理解です。

新約聖書にもそれを暗示する言葉がかなりあります。イエス・キリストが律法に熱心なファリサイ派や律法学者を何回も非難していること、ヨハネ書の「悪魔である父から出た者」、パウロ書簡などです。

ある時聖書のある文章に注目しました。ヨハネの黙示録13の「666」という数字です。「獣の名、あるいはその名の数字、、、数字は人間を指している」とあります。あの世界では一つのアルファベットは一つの数字を意味し、あるクリスチャンから聞いたのですが、皇帝ネロを数にすると666になるそうです。定説はないようですね。

私はだいぶ前からモーセの神はサタンだと考えていましたから、この数字がモーセならぴったりだと思いました。文字と数字の関係は私にはよくわからないのではっきりしませんが、どうも合わないようです。しばらくして写本の中には616のものもあると知りました。どちらが正しいかはわからないそうです。そして616も合わないようでした。

それからだいぶ経ってから、モーセの律法の数は613項目あるということを知りました。それでこれが黙字録の数字に関係しているのではないかと思い至ったのです。

666と616のどちらもが正しいことはないでしょうから、聖書の一言一句が全て正しいとは言えません。誤写だけでなく意図的な書換えはあって当然だと思います。それでモーセ悪魔崇拝者と考える私はこの件に関して二つの仮説を考えました。強い自信があるわけではありませんが。

ひとつは最初の黙示録には613と書かれていたものをまず616に書き換え次に666に書き換えたという仮説。もうひとつは最初が616だったとする考え。その頃は律法の条項が616だったので、これはまずいと思い、3項を他の項目に組み込みさらに616を666に変えたという仮説です。666は個人のものとしては特異過ぎる感じがします。12を特別な数としている面もありますが。

前にも書きましたが私は反ユダヤではありません。反モーセであり、むしろユダヤ人に対しては同情の気持ちです。あの時代弱者のユダヤ人にとってモーセの誘惑はさぞかし魅力的だったでしょう。しかしそのモーセのおかげでユダヤ人は永い間苦労の連続だったのではないか。今にいたるまで安らぎのときがあったでしょうか。

移り住んだ土地でも律法を頑固に守り通すのでその土地の人に嫌われるのは当然だと思います。「イエス・キリストを十字架につけたから」という理由だけではないでしょう。マルキオンのように考えた人がいつの時代にもいたと思われます。

今世界において一番必要とされることは、ユダヤ人がモーセから解放されることと、キリスト教モーセの神は父としての神ではなく堕天使ルシファーだと気づくことです。「地を従わせよ」「神にかたどって人を作った」はルシファーが言った言葉であると知ることです。またイスラム教にもモーセを創造神の直接の預言者ではなく堕天使からの預言であると認識してほしいと思っています。

大きなことを言うようですが、「生きる意味」と共に宗教の色々な面を考えてきて、かなり正しい結論に至ったのではないか、また今の世界で一番必要とされている「生命観、自然観、宗教観」ではないかとの思いからこのブログを書いています。

どうぞ最初から読んで見てください。生意気ですが、十分世界に発表するだけの価値があると思っています。

https://kosame21.hatenablog.com/entry/2021/09/07/124900