kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

信長と明治維新の仏教弾圧

16世紀に織田信長がやったことと明治維新とその後の日本の政策には似たところがあるような気がするのですが皆さんはどう思いますか。

 

第一にキリスト教の西洋人が来たこと。次に仏教が排斥されたこと、第三にその後大陸方面に出て行ったことなどです。

 

大陸方面に出て行ったのは信長ではなく秀吉ですが、信長が「いずれ日本を統一したら明(みん)を征服するつもりだ」と言っていたそうで、秀吉はそれを真似たのでしょう。あの時代下剋上の世の中で、自分がトップになったら下から狙われるしそれを平定する自信も秀吉にはなく、それだったら大陸に出ていこうと朝鮮出兵をやったのだと思われます。

 

明治維新の時、維新政府は神仏分離政策を採ったのてすよね。なぜあんなことをやったのでしょうか? 私にはどうにも理解できません。欧米はキリスト教という普遍宗教と文明がセットになってやってきたのだから、仏教という普遍宗教で対抗するより方法はなかったのではないかというのが私の気持ちです。

 

日本は千年以上もほとんどの国民が仏教を受け入れてきたのに、突然国家神道を国の基盤にした。その後に起こった廃仏毀釈は狂気の沙汰という感じです。これを見た欧米は喜んだでしょうね。なぜならあの頃西洋人は仏教、特に大乗仏教を大変恐れていたからです。

 

尊王攘夷尊王倒幕に変えてからの維新の志士たちは相当に西洋人に洗脳されていたでしょうから、私はあの仏教弾圧には西洋人の影響がかなりあると思っています。日本人は権威のある人間から命令されると普通はしないことまでをやってしまう傾向があるのではないか。比叡山焼き討ちや真宗門徒殺害なども信長という残酷な人間がいなかったらあれほどひどいことにはならなかったのではないでしょうか。この時もバテレンは喜んだでしょう。フランシスコ・ザビエルは「シャカとアミダという二人のサタンを滅ぼさねば、、、」というようなことを言っていましたから。

 

大陸方面に出て行ったのも西洋にとっては願ってもないことだったと思われる。16世紀に来た時、日本は戦国時代であり戦いに慣れているので、バテレンたちは日本の兵士を使って中国を征服しようと思ったようです。そのような遣り取りをした書簡が残っているそうです。何と言っても大国の中国が一番の目的ですよね。維新後に朝鮮半島から満州に進展したのもまるでアメリカやイギリスに促されてやったように思えるのですが気の所為でしょうか?

 

少し前にもアメリカのトランプ大統領が中国に対して「日本の兵隊は強いぞ!」的な発言をしていました。16世紀以来今に至るまで西洋の政治家の中には日本人を利用しての中国支配を構想している人間がかなりいるようです。

 

信長の仏教徒迫害などについては私にある仮説があり、いずれ書いてみようと思っています。

シミュレーション仮説について

少し前にシミュレーション仮説に関する本を読む。

我々が日々経験している世界は現実ではなく、何らかの高度な知的存在がコンピューターシミュレーションをしていて、その現れとしての仮想現実であるという仮説です。多くの科学者が支持しているそうで、人間もやがて文明を発展させてシミュレーション世界を作り出せるかもしれないとかなりの人達が考えているとのこと。

大乗仏教はこの世界は仮想現実であると言っていますよね。大乗仏教は唯心論ですから物質は実在しないと言っています。どの生き物の生命の奥底にもこの宇宙の主宰者である仏がいてシミュレーション世界を演出していると言っている。一切の現象は生命の奥底の仏の心であると。

華厳経のように「心は巧みなる画師のごとく様々に五蘊を画く」とはっきりは言わなくとも、般若経でも「あたかも幻術師が何もないのにあるように見せるが、それと同じように世界を見せている」というようなことを示しています。空(くう)は実在しないということです。

また法華経も物質が存在しないことを実に巧みに暗示していることは以前書きました。

私はコンピューター的なもので意識を生み出せる可能性は低いと思っていますが、この世界が永遠のブッダによりシミュレートされた仮想現実であることは確信しています。

本には「もしこの世界がシミュレートされたものであることがはっきりすれば、何らかの目的を持って生み出されたことになる」という風に書かれていました。その永遠のブッダの目的と人生の目的についてはこのブログで書きました(第一回から第四三回までの投稿)。

それとは別に最近のAI(人工知能)の発展は目覚ましいようです。そしてその危険性を指摘している人もいます。人間が意図した以上のことをAIがやりだして人間の脅威になる可能性があると。

この考えから私が連想したことは、永遠のブッダが生み出したシミュレーション世界で人間というAI的存在が永遠のブッダの一番の脅威になっているのではないかというものです。今も続いている自然破壊と環境汚染を見ればかなりの人がうなずくのではないでしょうか。他の生き物(AI的存在)はみな神の心のままに生きていますよね。キリストの言う「失われた一匹の羊」とは「人間」のことではないか? 地上の生き物はみな神の子であると仏教は言っています。

私の文明観は、これだけ文明を発展させてしまつたので廃止することはできないが、できるだけ少ないほうがいいという考えです。ただ誰もがほとんど労働しなくとも生きていけるようなAIを作れるのなら作ったほうが良いと思う。労働しないと生きていけないという制約がいろいろな問題を産み出しますからね。

アメリカのプロテスタントの中にはアーミッシュという教団があり、彼らは余り文明的なものを使用せず生きているのだから案外文明から離れることは困難なことではないのかもしれない。

 

捨身飼虎

仏教の経典には「飢えた虎に身を投げだした王子」の話があります。

ある時3人の王子が森の中に遊びに出掛けると飢えて弱り切った虎の親子に出くわす。二人の王子はかわいそうと同情するが立ち去ってしまう。しかし一人の王子は自分の命を与えれば救うことができると崖から飛び降りて虎の親子を救ったという話です。

この話を知ったのは多分仏教の勉強を始めてから2年も立っていなかったと思います。大乗の経典には「身命を惜しまず」という言葉がしきりに出てきますし、真理の言葉を聞きたいために羅刹に身命を与えたという話もあり、そのぐらいの覚悟も必要なんだと理解したのですが、なかなかできることではない、が実感でした。

そしてまたこの話はいわゆる弱肉強食にも関係したことなのではないかと思うようになりました。大乗仏教は一切衆生悉有仏性とどの生き物もその本性は仏であると言っています。従ってどの生き物も仏という王者の子、王子です。また「ただ仏と仏とが諸法の実相をきわめ尽くしている」という文章もあります。弱肉者の奥底の仏と強食者の奥底の仏がやり取りをしてあの現象が成立するのではないかと見ることができます。表面の意識は「つかまりたくない! 助けてくれ!」と「欲しいっ! 欲しいっ!」です。

更に仏教を学んでいき、他を救うことにより自分が救われることが最高の境地最高の悟りてあると理解しました。弱肉者の方は自分の命に執着するという究極の迷いの心を断ち切って強食者の迷いの心を救ったのだから最高の悟りです。潜在意識の奥底では仏と仏が極め尽くしているのでしょう。

弱肉の方が完全な悟りを成就しているという理解は今に至るまで正しい解釈だと私は考えています。

それとは別にずっと後になってあることが思い浮かびました。弱肉の方の表面の意識は「つかまりたくない、助けてくれ」だと言いましたがひょっとしたらあの王子のように意図的に身を投げ出すことが自然界で行われているのかもしれないと思ったのです。

それは若い頃に見たある映画を思い出していた時でした。キタキツネの映画だった様な気がするのですが、オオカミとかジャッカルだったかもしれません。成長していく過程である季節になると草原の少し離れた草むらから時々飛び出してくるネズミを目ざとく見つけて捕らえて食べるという場面です。それを何回か繰り返すシーンでした。その時はチョロチョロ動く野ねずみを見て「随分不注意だな、命取られちゃうのに。バカだなー」と思いました。まるでわざわざキツネに見つかるためにチョロチョロ動いているように見えたのです。まぁ哺乳類は目はあまり良くないので気が付かないのかもと思ったりしましたが。

その映画はそれっきりだったのですが、身を捨てた王子の話を読んでから30年近く経った頃、またその話を考えていたときに映画のネズミと結びついたのです。ネズミは近くにキツネがいることを知っていて「あのキツネひょっとしたらお腹すかせているんじやないだろうか」とわざわざ見える所に出てくるのではないか。映画を見たときがわざわざという印象でした。

ある種のネズミは集団自殺をするようですね。どんどん崖から海に飛び込んでいくとか。彼らは自分の命に対する執着心がほとんどないのではないでしょうか。ネズミも仏の子、王子です。3人の王子の一番若い王子というのもネズミのような弱小動物に他を救う大きな力があることが示されているのかもしれない。

キリストの言葉にも「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」があります。決して人間だけのことを言っているのではないと私は思いますが。

これはあくまでも私が思いついた仮説であり確信的とまではいきません。しかし決して妄想的なことではなく十分あり得ることだと思っています。大乗仏典の作者はネズミなどの気持ちを知っていて暗に秘めてトラと王子の話にしたのかもしれません。

 

弱肉強食や死のこと、また「生きる意味」に関してはすでにこのブログで書きました。興味のある方は読んてみてください。第一回「人生の目的」から第四三回「新しい時代に向けて」までがその説明です。

https://kosame21.hatenablog.com/entry/2021/09/07/124900

邪馬台国

最近吉野ヶ里遺跡の石棺墓の公開が注目されているようです。

吉野ヶ里遺跡と言えば邪馬台国の候補地ともされていますよね。邪馬台国が何処にあったかは江戸時代以来未だに議論が続いていますが、私は畿内説です。素人考えですが。

邪馬台国ヤマタイコクではなく、ヤマトーコクが正しいのではないかと思うようになったからです。

中国の史書には「台」の字が二通り使われていてその一つは「臺」です。これを見た時フキノトウのトウが確かこんな字ではなかったかと調べてみたら草冠をつけるとフキノトウのトウになることがわかりました。それで魏の使者がヤマトウと聞いた言葉を漢字にしたこともありうると思ったのです。

それからある時日本のある古い書籍を見ていたら「ヤマト」が万葉仮名で書かれており、ヤマは耶馬でトは、ハッキリとは覚えていないのですが、謄本の謄か沸騰の騰という字でした。これを見てあの頃でも(6世紀頃?)ヤマトではなく、ヤマトウあるいはヤマトーと言っていたのではないかと想像しました。

これが正しいとすると元々はヤマタオから来ているのではないか? 八岐に尾を足したものです。大和は盆地だからあちこちに尾根が枝分かれして見える。それで八岐尾、ヤマタオです。

ヤマタオはヤマトウに自然になるでしょうね。中国のタオ(道)もドウやトウです。

そういうわけで私の見解はヤマタオがヤマトーになり、最後にヤマトになったというものです。

それから数年経った2017年にあるサイトで邪馬台国を解説していてその人達は私と同じようにヤマトウ国と読むのが正しいと主張していました。二つのタイの漢字は「臺」と「壹」でどちらもトウと読めると言っていました。漢字は偏とつくりからなつていて音はつくりから来るそうです。至も豆もトウであるからヤマタイ国ではなくヤマトウ国が正しいと。

確かに到達とか先頭と言います。

もう一つ仮説があります。倭(わ)の国とヤマトは元は別の国だったのではないかというものです。倭の国は九州北部の人達であって、何らかの目的により合併した。2世紀はじめに洛陽に使者を送っていますよね、多くの生口を伴って。新しい国になったからではないでしょうか。

国の名前はヤマトウ国で文字で書くときは「大倭(おおわ)・おおやまとう」後で倭は蔑称なので和に変えて「大和」としたと考えると大和をヤマトと読むことが納得できます。魏志倭人伝と言うように畿内の人達を倭人と言ったのもわかります。

 

 

法華経の巧みさのひとつ

日本で法華経が重視されるのは、何と言っても平安時代天台宗が創立され、その元々の始祖である中国のチギが法華経を中心にしたからでしょう。

ただし、かなり多くの僧侶が「法華経は自分をほめてばかりいる」とか「比喩が多く教学的な理論に乏しい」と法華経を評価していません。

あの禅の高僧である白隠も同じ想いを法華経に持っていたのですよね。白隠は20代の前半に見性大悟という特別な境地を得ています。それでも長いこと法華経の良さを理解できなかったそうです。

ところがある集会のとき彼が法華経を読誦することになり、読みとなえていたらキリギリス、今のコオロギだそうてすがその鳴き声が聞こえてきて法華経の意味していることが分かり号泣したとのこと。40才を過ぎていたそうです。

それ以来彼は法華経を称賛するようになつたようてすが、彼のように法華経の意味を知ることが法華経の良さがわかるということだと思う。

私にはコオロギの鳴き声と法華経のどの文章が重なったかわかりませんが、それとは別に私なりの法華経解釈を幾つかしてきました。前回の記事の提婆達多品や常不軽菩薩品や従地涌出品などです。自分で言うのも何ですがかなり正しく理解したと思っています。

今日はもう一つ私が理解した法華経の巧みさを書いてみようと思います。仏教の勉強を始めて30年位経った時に初めてわかった話です。

法華経如来寿量品という章には「名医」のたとえ話があります。

名医である父が毒を飲んてしまった子どもたちに薬を与えるが飲まないので、他国に行き本当は元気でいるのだが友人に頼んで「父は死んだ」と伝えてもらう。子どもたちはそれを聞いて悲しみ、父が薬を飲みなさいと言っていたのを思い出し薬を飲んで毒の病を治した、という比喩の話です。いわゆる嘘も方便です。このあと釈尊と聴衆の次のやり取りがあります。「諸々の仏法に帰依した男子よ、どう思うか。この優れた医者の嘘の罪を説くものがいるであろうかどうであろうか。」「世尊、いません。」

実はこの話と同じように「嘘をついたことになるのか」と釈尊が聞き弟子が「嘘ではありません。」と答える話が他の章にもあるのてす。第三章の比喩品です。

ある長者の大邸宅が火事になり、子どもたちは遊びに夢中で逃げようとしない。長者は逃げるようにさとすが遊びに執着して受け入れない。長者が一計を案じて、門の外にお前たちが好む羊の車、鹿の車、牛の車があるからそれで遊びなさいと誘って外に呼び出し、外に出てきたら子供たちに大きな白牛車を与えたという話です。この羊や鹿や普通の牛の車ではなく大白牛車ということで「嘘をついたことになるのか」と聞いたのです。

法華経は何回か読んでいましたが、一章から順番に最後まで読むのではなく、読みたいと思った章を選んで読んでいくという読み方だったので、「嘘をついたことになるか」が二つの章に書かれているとは気が付きませんでした。比喩品も如来寿量品も何回か読んでいましたが、時間差があったからだと思われます。一応頭の中では如来寿量品にこの話があるとかなりの期間思ってきました。

ところがある時比喩品を読み直してみてここにも「嘘をついたことになるか」があったことがわかりました。それで何でだろうとなったのです。どちらか片方だったら不思議でも何でもないです。しかし二つの章で釈尊が「嘘をついたことになるか」と尋ね弟子が「そうではありません」と否定するのは何か変だとは思いませんか? 

しばらく考えて「あっ、そうか。わかつた!」と思いました。

これは究極的な「嘘も方便」を暗に示唆しているのです。

究極的な嘘とは物質は本当は実在しないのにあるように見せていることです。大乗仏教はみな唯心論であり物質は存在せず、物質のように見えるものは霊魂の奥の永遠のブッダの心だと言っています。「空」は実在しないということです。

それで「私(ブッダ)は物質をあるように見せているが、嘘をついたことになるか」と経典には書いてないことを暗示しているのです。

前に「人生の目的」の話で永遠のブッダは方便、救いの手段として迷いの霊を「自分がある」「物質がある」というあり方にしている、そして自己を空じ物質的現象を空じた時に迷いの霊が救われたましいが豊かになっていく、と自然の美や大笑いの例で説明しました。人空、法空です。

法華経の巧みさが実に良く示されているとは思いませんか? 二つの奥深いたとえ話でさり気なく「嘘をついたことになるか」と言うことにより究極的な嘘を暗示するんですから。

これがわかった時は大変うれしかったし、この解釈はほぼ正しいと確信しています。ただ運が良かった面もあります。というのは前日に法華経とは関連なく別な論点を考えたりしていてそれと結びついたからです。

西洋で唯心論をとなえたバークレー司教に関することです。彼は自分の代理人である唯心論者と素朴実在論者との対話を本にしています。西洋の知識人らしく「物質自体には色はない、などというのはおかしい。自分の持っていないものを他に与えることはできないはず。」のような鋭い論法で相手を少しずつ唯心論に導いていきます。

しかし最後に近いところで相手に「結局のところ神は我々をあざむいているのですか?」と聞かれます。それに対してバークレー代理人は正しく答えていない、というのが私の感想でした。代理人は「物質への信念を強要する啓示があるのでしょうか?」とか「神が人類をあざむいているとは私は思わない」と言いますがこれでは説得力がありません。

私だったら「その通り。神はわざわざ物質があるように人類に見せているのだ。ただし、あざむくというのではなく善意でもって人の心の中の迷いの霊を救うために、方便で、あるように見せている。」と言って人空、法空を説明する、などと前日にあれこれ考えていました。この事と法華経の「嘘をついたことになるか」が結びついて「あっ、そうか」となったのです。

キリスト教には「空」という教学的な原理は無いのでバークレーはもうひとつ説明できなかったのだと思われます。ただ彼は禅宗の見性した人の境地、不二一元の境地に居た人だと私は想像します。

法華経の二つの「嘘も方便」と「一切皆空」の暗示、何とも巧みとは思いませんか。

 

 

 

 

 

提婆達多品(だいばだったほん)は悪人成仏てはない

通常、法華経提婆達多品は悪人成仏と女人成仏の話が書かれていると言われています。

大乗仏教は一切衆生悉有仏性ですから悪人も女人もみな成仏するというのはわかります。私が納得できなかったのは、提婆達多釈尊法華経を説いて成仏したという話です。しかも釈尊提婆達多に奴隷のように仕えた挙げ句法華経を説いてもらったとは何か変だなという思いでした。

おそらく単なる悪人成仏の話ではなく、別の納得できる解釈があるはずとあれこれ考えてある結論に至りました。

私の解釈はほぼ間違いないと確信しております。というのは、この提婆達多品は、最初に編纂された法華経にあとから付け加えられたものであって、内容が基本的に見宝塔品と一緒だから見宝塔品の次の章に置かれた、とある本で読んでいたからです。その本とは紀野一義氏著作の法華経に関する文庫本でした。

それで提婆達多品を「解った!」と思った時に、上記のことを思い出して、見宝塔品をもう一度読んてみることにしました。内容が同じかどうか判断できると思って。

そして基本的に同じでした。

提婆達多品に出てくる提婆達多はいわゆる歴史上の提婆達多ではありません。初期大乗の般若経などから法華経に至るまでの間、大乗の教えを説いた人たちのことを、伝統仏教の比丘たちが「ブッダはそんなことを教えていない。お前は反逆者だ! 提婆達多だ!」と非難したのでしょう。

そこで大乗の説法者は「汝らが提婆達多と決めつけている私こそが、釈尊が待ち望んだ者なのである」とこの提婆達多品で言っているのです。ゴータマブッダは完全な真実は示せなかった、もし今この世にいればきっと大乗を求めただろう、との思いで書かれています。

その辺のことを巧みにしかも感動的に表現していると思います。大乗を説いてくれればその人の奴隷になって仕えると言い、「果実をとり、水を汲み、薪を拾い、食事の支度をし、自分の身を寝椅子や腰掛としたりもしたが、身も心もいやになる事はなかった。」と実際に行いました。

この「果実をとり、水を汲み、、、、」などをして仙人(提婆達多)に仕えたという表現は、ゴータマブッダの説いた四諦の教えや、諸行無常諸法無我涅槃寂静三法印や十二支縁起などのことだと思われます。大乗へ進むための準備としての教え、苦痛を取り除くための教え、救急の薬です。ゴータマ釈尊がこれだけ仕えてくれたのでその恩返しで最高の真実である大乗を説いているのだ、というのが大乗説法者の気持ちです。

たとえて言えば師と弟子の関係のようなものかもしれません。師は弟子を熱心に指導し、鍛え上げ、自分を超える存在になれかしと願い(奴隷になって仕え)、弟子の方も懸命に努力して上を目指し、師を超えたいとの思いで修行します。この願いが実現した時は、両者がともに大きな喜びを得ると思われます。師の愛、弟子の報恩感謝。

提婆達多品ではゴータマ釈尊と仙人(大乗説法者)の関係です。

そこで見宝塔品の話です。内容が一緒でしょうか。基本的に同じでした。見宝塔品の多宝如来が歴史上のゴータマ釈尊であり、その多宝如来が称賛した釈迦牟尼世尊提婆達多品の仙人、法華経の説法者です。歴史上の提婆達多ではありません。

多宝如来は「善きかな善きかな釈迦牟尼世尊、能く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て大衆の為に説きたまう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊所説の如きは皆是れ真実なり。」とたたえました。今は多宝如来となつているゴータマブッダが現れるなら必ずこのように称賛するだろうと言っているのです。

法華経は誰もが成仏すると示しているので、歴史上の提婆達多も成仏したのでしょうが天王如来になったのは彼ではなく大乗の説法者です。

従って法華経提婆達多品はいわゆる悪人成仏ではありません。見宝塔品も提婆達多品も歴史上のゴータマブッダと大乗の説法者との関係が示されているので基本的に内容が一緒であると言われてきたのです。