kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

法華経の巧みさのひとつ

日本で法華経が重視されるのは、何と言っても平安時代天台宗が創立され、その元々の始祖である中国のチギが法華経を中心にしたからでしょう。

ただし、かなり多くの僧侶が「法華経は自分をほめてばかりいる」とか「比喩が多く教学的な理論に乏しい」と法華経を評価していません。

あの禅の高僧である白隠も同じ想いを法華経に持っていたのですよね。白隠は20代の前半に見性大悟という特別な境地を得ています。それでも長いこと法華経の良さを理解できなかったそうです。

ところがある集会のとき彼が法華経を読誦することになり、読みとなえていたらキリギリス、今のコオロギだそうてすがその鳴き声が聞こえてきて法華経の意味していることが分かり号泣したとのこと。40才を過ぎていたそうです。

それ以来彼は法華経を称賛するようになつたようてすが、彼のように法華経の意味を知ることが法華経の良さがわかるということだと思う。

私にはコオロギの鳴き声と法華経のどの文章が重なったかわかりませんが、それとは別に私なりの法華経解釈を幾つかしてきました。前回の記事の提婆達多品や常不軽菩薩品や従地涌出品などです。自分で言うのも何ですがかなり正しく理解したと思っています。

今日はもう一つ私が理解した法華経の巧みさを書いてみようと思います。仏教の勉強を始めて30年位経った時に初めてわかった話です。

法華経如来寿量品という章には「名医」のたとえ話があります。

名医である父が毒を飲んてしまった子どもたちに薬を与えるが飲まないので、他国に行き本当は元気でいるのだが友人に頼んで「父は死んだ」と伝えてもらう。子どもたちはそれを聞いて悲しみ、父が薬を飲みなさいと言っていたのを思い出し薬を飲んで毒の病を治した、という比喩の話です。いわゆる嘘も方便です。このあと釈尊と聴衆の次のやり取りがあります。「諸々の仏法に帰依した男子よ、どう思うか。この優れた医者の嘘の罪を説くものがいるであろうかどうであろうか。」「世尊、いません。」

実はこの話と同じように「嘘をついたことになるのか」と釈尊が聞き弟子が「嘘ではありません。」と答える話が他の章にもあるのてす。第三章の比喩品です。

ある長者の大邸宅が火事になり、子どもたちは遊びに夢中で逃げようとしない。長者は逃げるようにさとすが遊びに執着して受け入れない。長者が一計を案じて、門の外にお前たちが好む羊の車、鹿の車、牛の車があるからそれで遊びなさいと誘って外に呼び出し、外に出てきたら子供たちに大きな白牛車を与えたという話です。この羊や鹿や普通の牛の車ではなく大白牛車ということで「嘘をついたことになるのか」と聞いたのです。

法華経は何回か読んでいましたが、一章から順番に最後まで読むのではなく、読みたいと思った章を選んで読んでいくという読み方だったので、「嘘をついたことになるか」が二つの章に書かれているとは気が付きませんでした。比喩品も如来寿量品も何回か読んでいましたが、時間差があったからだと思われます。一応頭の中では如来寿量品にこの話があるとかなりの期間思ってきました。

ところがある時比喩品を読み直してみてここにも「嘘をついたことになるか」があったことがわかりました。それで何でだろうとなったのです。どちらか片方だったら不思議でも何でもないです。しかし二つの章で釈尊が「嘘をついたことになるか」と尋ね弟子が「そうではありません」と否定するのは何か変だとは思いませんか? 

しばらく考えて「あっ、そうか。わかつた!」と思いました。

これは究極的な「嘘も方便」を暗に示唆しているのです。

究極的な嘘とは物質は本当は実在しないのにあるように見せていることです。大乗仏教はみな唯心論であり物質は存在せず、物質のように見えるものは霊魂の奥の永遠のブッダの心だと言っています。「空」は実在しないということです。

それで「私(ブッダ)は物質をあるように見せているが、嘘をついたことになるか」と経典には書いてないことを暗示しているのです。

前に「人生の目的」の話で永遠のブッダは方便、救いの手段として迷いの霊を「自分がある」「物質がある」というあり方にしている、そして自己を空じ物質的現象を空じた時に迷いの霊が救われたましいが豊かになっていく、と自然の美や大笑いの例で説明しました。人空、法空です。

法華経の巧みさが実に良く示されているとは思いませんか? 二つの奥深いたとえ話でさり気なく「嘘をついたことになるか」と言うことにより究極的な嘘を暗示するんですから。

これがわかった時は大変うれしかったし、この解釈はほぼ正しいと確信しています。ただ運が良かった面もあります。というのは前日に法華経とは関連なく別な論点を考えたりしていてそれと結びついたからです。

西洋で唯心論をとなえたバークレー司教に関することです。彼は自分の代理人である唯心論者と素朴実在論者との対話を本にしています。西洋の知識人らしく「物質自体には色はない、などというのはおかしい。自分の持っていないものを他に与えることはできないはず。」のような鋭い論法で相手を少しずつ唯心論に導いていきます。

しかし最後に近いところで相手に「結局のところ神は我々をあざむいているのですか?」と聞かれます。それに対してバークレー代理人は正しく答えていない、というのが私の感想でした。代理人は「物質への信念を強要する啓示があるのでしょうか?」とか「神が人類をあざむいているとは私は思わない」と言いますがこれでは説得力がありません。

私だったら「その通り。神はわざわざ物質があるように人類に見せているのだ。ただし、あざむくというのではなく善意でもって人の心の中の迷いの霊を救うために、方便で、あるように見せている。」と言って人空、法空を説明する、などと前日にあれこれ考えていました。この事と法華経の「嘘をついたことになるか」が結びついて「あっ、そうか」となったのです。

キリスト教には「空」という教学的な原理は無いのでバークレーはもうひとつ説明できなかったのだと思われます。ただ彼は禅宗の見性した人の境地、不二一元の境地に居た人だと私は想像します。

法華経の二つの「嘘も方便」と「一切皆空」の暗示、何とも巧みとは思いませんか。