kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

捨身飼虎

仏教の経典には「飢えた虎に身を投げだした王子」の話があります。

ある時3人の王子が森の中に遊びに出掛けると飢えて弱り切った虎の親子に出くわす。二人の王子はかわいそうと同情するが立ち去ってしまう。しかし一人の王子は自分の命を与えれば救うことができると崖から飛び降りて虎の親子を救ったという話です。

この話を知ったのは多分仏教の勉強を始めてから2年も立っていなかったと思います。大乗の経典には「身命を惜しまず」という言葉がしきりに出てきますし、真理の言葉を聞きたいために羅刹に身命を与えたという話もあり、そのぐらいの覚悟も必要なんだと理解したのですが、なかなかできることではない、が実感でした。

そしてまたこの話はいわゆる弱肉強食にも関係したことなのではないかと思うようになりました。大乗仏教は一切衆生悉有仏性とどの生き物もその本性は仏であると言っています。従ってどの生き物も仏という王者の子、王子です。また「ただ仏と仏とが諸法の実相をきわめ尽くしている」という文章もあります。弱肉者の奥底の仏と強食者の奥底の仏がやり取りをしてあの現象が成立するのではないかと見ることができます。表面の意識は「つかまりたくない! 助けてくれ!」と「欲しいっ! 欲しいっ!」です。

更に仏教を学んでいき、他を救うことにより自分が救われることが最高の境地最高の悟りてあると理解しました。弱肉者の方は自分の命に執着するという究極の迷いの心を断ち切って強食者の迷いの心を救ったのだから最高の悟りです。潜在意識の奥底では仏と仏が極め尽くしているのでしょう。

弱肉の方が完全な悟りを成就しているという理解は今に至るまで正しい解釈だと私は考えています。

それとは別にずっと後になってあることが思い浮かびました。弱肉の方の表面の意識は「つかまりたくない、助けてくれ」だと言いましたがひょっとしたらあの王子のように意図的に身を投げ出すことが自然界で行われているのかもしれないと思ったのです。

それは若い頃に見たある映画を思い出していた時でした。キタキツネの映画だった様な気がするのですが、オオカミとかジャッカルだったかもしれません。成長していく過程である季節になると草原の少し離れた草むらから時々飛び出してくるネズミを目ざとく見つけて捕らえて食べるという場面です。それを何回か繰り返すシーンでした。その時はチョロチョロ動く野ねずみを見て「随分不注意だな、命取られちゃうのに。バカだなー」と思いました。まるでわざわざキツネに見つかるためにチョロチョロ動いているように見えたのです。まぁ哺乳類は目はあまり良くないので気が付かないのかもと思ったりしましたが。

その映画はそれっきりだったのですが、身を捨てた王子の話を読んでから30年近く経った頃、またその話を考えていたときに映画のネズミと結びついたのです。ネズミは近くにキツネがいることを知っていて「あのキツネひょっとしたらお腹すかせているんじやないだろうか」とわざわざ見える所に出てくるのではないか。映画を見たときがわざわざという印象でした。

ある種のネズミは集団自殺をするようですね。どんどん崖から海に飛び込んでいくとか。彼らは自分の命に対する執着心がほとんどないのではないでしょうか。ネズミも仏の子、王子です。3人の王子の一番若い王子というのもネズミのような弱小動物に他を救う大きな力があることが示されているのかもしれない。

キリストの言葉にも「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」があります。決して人間だけのことを言っているのではないと私は思いますが。

これはあくまでも私が思いついた仮説であり確信的とまではいきません。しかし決して妄想的なことではなく十分あり得ることだと思っています。大乗仏典の作者はネズミなどの気持ちを知っていて暗に秘めてトラと王子の話にしたのかもしれません。

 

弱肉強食や死のこと、また「生きる意味」に関してはすでにこのブログで書きました。興味のある方は読んてみてください。第一回「人生の目的」から第四三回「新しい時代に向けて」までがその説明です。

https://kosame21.hatenablog.com/entry/2021/09/07/124900