kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

キリストの三つのたとえ話

先日読んだ本にキリストのたとえ話について少し気になることが書いてあった。

 

ルカ福音書にある「不正な管理人」のたとえなどは理解しやすいが、「見失った羊」「放蕩息子」「ぶどう園の労働者」のたとえなどはもうひとつ理解されにくいと言われている、と書いてありました。

 

私はこの三つのたとえ話の私なりの解釈を以前書いています。どうぞ試しに読んでみてください。

 

https://kosame21.hatenablog.com/entry/2022/05/02/093826

https://kosame21.hatenablog.com/entry/2022/08/02/103503

https://kosame21.hatenablog.com/entry/2021/11/20/095600

放蕩息子 仮説

ルカによる福音書に「放蕩息子」のたとえ、という話があります。少し長いですが書いてみます。

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「ある人に息子が二人あった。弟が父に『お父さん。私に財産の分け前をください』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産をつかってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。

それでその国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのに私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持ってきて、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

ところで兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえて来た。そこでしもべの一人を呼んで、これはいったい何事か戸訪ねた。しもべは言った。『弟さんが帰ってこられました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出てきてなだめた。しかし兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったてはありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒に貴女の身上を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると父親は言った。『子よ。お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

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この話の一般的な解釈では「弟(放蕩息子)」は罪人である人間(異邦人、取税人、遊女たち)、「兄」はパリサイ派ユダヤ人を指しているようです。私はパリサイ派ユダヤ人はイエス・キリストが最も嫌う、神から最も遠い存在、とみなしていたと思うので上記の解釈は有り得ないと考えます。

このたとえ話は、なぜこの世界に大型の肉食獣が存在するのかを説明しているのだと思いました。神を信じて救いを求めれば非常に迷いの強い霊でも神は救う、という話です。

放蕩息子が父の元に帰ろうと思った時よりも前の話はよくわかりません。たぶん霊的世界のことで、財産を使い果たしたと云うのは、それまでの食べ物、草葉や木の実、草の実、また虫や魚などの小動物では満足できなくなってしまった事を言っているのかもしれません。

一番良い着物を着せたと云うのはライオンのたてがみやトラの美しい毛皮を意味し、手に指輪をはめさせたとは鋭い爪を与えたことで、足に靴を履かせたとは非常に速く走れる足を与えたということです。そして野生の牛や馬を追わせてその肉を与え、草食獣の肉のようなものでないと満たされない非常に迷いの強い霊を救う、ということだと思われます。

イエス・キリストはたびたび自分を信じる人たちと宴会をしたようですが、美しい着物を着せるとか指輪をはめさせるような話はしておらず、人間界の話として解釈してはおかしいのではないか? 私の解釈ならぴったりな気がしますがどうでしょうか。

この祝宴の様子を見て兄が怒って父に不平を言いますが、この兄とは鹿や馬などの草食獣、あるいは草木の実や虫を食べる鳥などのことではないか?

父は兄をなだめて「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。、、、祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と言います。これもはっきりとはわかりませんが、草食獣や小鳥のほうが柔和で神に近い感じです。兄に当たる生き物には生まれてくる前から肉食獣の存在を受け入れるようにすでに諭されているということのような気がします。

あとひとつ、兄が弟のことを「あなたのあの息子が」と父親に言っています。弟と言わずにあの息子という言い方は、人間同士より種類の異なる動物だったらよくわかります。

あの世はどこにある?

キリスト教イスラム教はあの世の場所を天国と言っています。仏教は西方十万億土に極楽浄土(安楽浄土とも云う)があるとしています。

イエス・キリストは天国という言葉ではなく神の国と表現しました。しかも現在の神の国と未来の神の国とを言っているようです。これは仏教もそうです。安楽浄土は浄土系の経典には未来の浄土として書かれており、それとは別に現在の浄土として己心の浄土とか娑婆即寂光土が言われます。

今のわたしの教学ではこれらの浄土、あの世は全部正しいことになります。つまりどれも同じことを示しています。あの世とはこの太陽系の外の星の世界のことです。

西方十万億土にある浄土ですが西方とはこの世の象徴である太陽が沈む方向で、沈んだ後あの世を示すために星空を見せます。今のあの世の状態をあえて目で見るとこのようなものだと星空で示しているわけです。

そして星の世界は東から西へと毎日回転しています。だから天国も西方浄土も一緒です。また「たましいは海の彼方からやってくる」と海の彼方にあの世があると考えたのも正しいことで水平線の向こうで天と地が交わり天があの世であると知っていたのです。更に寄せくる波に乗ってという具合に神が示す波の意味もよく知っていました。また日本の古代の人は「海の彼方に常世がある」と見ていましたがこれも同じです。常世とは永遠の世界です。船でいくら沖に漕ぎ続けても決して常世には着きません。太陽系の外が常世です。

では現在の神の国、この世が浄土また己心の浄土とはどういう事でしようか。それはこの世の生を終えてあの世へ行った霊が還相回向されて地上によみがえっているということです。それを示しているのが星の光です。光はこの地上に届いていますよね。

従って地上は本当は神の国、西方十万億土の安楽浄土が反映された世界で楽園であり、誰もがそこで楽しく修行し、やがて寿命が尽きたらあの世に行くという人生を送っていた。その楽園を人間は罪により苦しみの世界、穢土にしてしまったのです。

己心の浄土というのは外界の世界はどれも本当は自分の心だからです。どんな現象も感性的には自分の心と一致します。そしてどの現象もよみがえった仏たち、「十方の諸仏」です。自分の中の仏の心が鏡で外界に映し出されたものです。なので己心の浄土とも言います。というか己心の浄土が一番正しいと言えます。大乗は唯心論であり、外界の物質的現象は本当は存在しないと言っていますから。イエス・キリストも確か「神の国はあなた方のただ中にある」と言っていましたよね。これが己心の浄土です。

しかし神はあえて目で見るとこのようなものだと示すためにわざわざ物質があるかのように見せていますから、天国や西方十万億土も正しいと見て良いと思われます。

この西方の距離のことでちょっと面白いことに気づきました。ふと十万億土ってどのくらいだろうと思い計算してみました。一国土はあの時代、共同体や独りの統治者を考えると10km〜100kmあたりではないかと思い、となると10kmとして、十万億土は10万×1億×10kmになります。これは100兆kmです。太陽系の直径を調べてみたら30兆kmぐらいでした。地球は太陽に近いので半分の15〜16兆kmから外は太陽系の外の世界になります。仏典を文字通り受け取って100兆kmから先を極楽浄土と見るのは現実の科学的知見から見てもかなり妥当であると言えます。偶然なのでしょうか。

 

5〜6億年前に生命は多様化した

以前にも言いましたが仏教全体が神の啓示です。啓示とは神=天地の主宰者の方から人間の意識に近づいて来て誰かを通して神の思いを人間に示すことです。

今の文献学によると仏教の場合大体三つの時期に分けられます。まずゴータマブツダによる初期仏教、次が般若経などの主だった大乗経典が説かれた時期、最後に密教が説かれた時期。

ゴータマブツダ自身は自分の悟りが神によるものとは気付いていません。大乗を説いた人は皆ゴータマも神の啓示であることを知っています。啓示の一番のピークは主だった大乗経典が説かれたときです。密教の時はピークは過ぎていたと思われる。

天地の主宰者である神は一切知者ですからこの宇宙のすべてを知っています。従って主だった大乗経典の作者はほぼ一切を知っていた人になり、数億年前の地球を知っていても不思議ではありません。なぜこのようなことを言うかというと、経典に5〜6億年前のことが書かれていると思えるところがあるからです。

現代の科学的知見で5〜6億年前に海の中で生命が多様化したことがわかっています。眼などの感覚器官を持った殻の硬い動物がかなり出てきたり、異種の動物間で捕食者と非捕食者の関係が始まったようです。

仏教の経典にはこのことを言ってるようなところがあります。法華経の薬王菩薩本事品という章です。

ざっと説明しますと、薬王菩薩が前世で一切衆生喜見菩薩であった時修行に励み、現一切色身三昧の境地を体得したという話。そしてこのぐらいの成果だけではみ仏を供養したことにはならないと思い、身体に香料を塗り火をつけて仏を供養した。世界はその光であまねく照らされ、菩薩の寿命はやがて燃え尽きたが後にある王家に結跏趺坐したままよみがえったという話です。

この話はいわゆる生命が多様化したカンブリア爆発の現象にぴったりだと私は考えました。一切衆生喜見菩薩とは一切の生きとし生けるものが喜びを得ることを願う菩薩だと思う。

現一切色身三昧と云うのは自分の肉体や他の世界をはっきりと知ることができる感覚器官を得たということで、特に目という見る喜びは特別なものがあるでしょうね。現代人でもスキューバダイビングをする人は病みつきになる人が多いようです。

これだけでも凄い創造のわざですが、更に尊い供養をと考え出したのが自分の肉体に火をつける焼身供養だと思います。いわゆる弱肉強食という関係です。大乗仏教は、弱肉という非捕食者は相手を救うとともに神に命を捧げた者、と教えています。

偶然の積み重ねや適者生存で目という感覚器官が発生するでしょうか? 喜びを求める存在に、それを与えるためにサムシンググレートの力と智慧が働いたと考えた方がはるかに理にかなっていると私は思います。

なぜ神は沈黙しているのか 2

 

キリスト教の教学には奇異というか首をかしげる面をかなり持っています。神は愛でありその愛の対象は人間だけであるとしていますよね。このことを初めて知ったのはたしか二十歳の頃だったと思います。

その頃は宗教には関心がなく、神の存在も信じていませんでした。それでも何かの本でキリスト教は人間だけが神の愛の対象であるとしているのを知った時には奇異な感じを持ちました。

神が万物を創造したとして、ペットを始めとして様々な動物はどれも喜び、怒り、恐れなどの心を持っているのに、人間だけが愛の対象と云うのはとても信じられませんでした。人間は確かに文明を持っている点で特殊なところはあるけれど、人間同士の戦争や差別またかなりの生き物を絶滅させたりとかむしろ人間が一番悪い存在なのではないかと考えたりしましたから。

それ以来キリスト教には関心を持たなかったのですが、仏教に関心を持ってからはキリスト教の勉強も始めました。そして教学の面では色々と疑問を持ちました。神が『地を服従せしめよ』と言ったこと。終末論や文明に対する考え方など、私が仏教で学んだ価値観から見ると正直言って、何か変だなという感じでした。

そしてあとになって、旧約の冒頭の「神に似せて人を作った」と「地を従わせよ」を文字通り神の意志と解釈したから色々と偏った教学になるのだと私は理解しました。

あともう一つ私が違和感を持ったのは、イエス・キリストは全人類の罪を贖うために十字架にかかった、という教理です。

エスが贖ったから人間に救いが生じた。イエスの十字架がなかったら人間に救いはないということですよね。イエス自身は何ひとつ罪を犯していない。全人類は皆罪深い、本当は全人類が裁かれなければならないのだが、神の子であるイエスが全人類の身代わりとなって十字架にかかり復活した、それにより人間が救われるようになった、という教理です。

私はこの教理に違和感を持ちました。神が人間の罪と死を救うためにそんなことをするだろうかという疑問です。イエス・キリスト自身は死んでも死なない、天に帰るということをあらかじめ知っていた人です。また以前言ったように臨死体験の境地ぐらいならすぐ往ける人です。

そのような神のこの世での死が全人類の身代わりの刑死という考えはどうも納得できませんでした。鈴木大拙という西洋に仏教を広めた人も同じようなことを言っていたと記憶します。「神がそのようなことを意図するというのは何か変だ」のように。

しかしキリスト教が始まって以来、膨大な数の人たちがキリストの十字架死をそう受け取ってきたのですよね。「自分は罪深い人間だ、本当は神に裁かれても仕方がない存在だ。それなのに神の独り子であるイエスが私の罪を贖うために十字架上で死んで下さった」と信じ、そこに多くの人たちが神の愛を感じてきたのですよね。

 

これだけ多くの人たちがそう信じてきたので、神は今それを示しているのではないか?

 

私は最近その可能性を考えるようになりました。つまり人間がどうしても立ち直らないので、神が全人類の身代わりとなって自分自身を罰しているのではないかという考えです。

そう考えると神が今なぜ沈黙しているのか、地上がこれほど荒れ果てているのに、神が最も嫌う有様なのに、なぜそのまにまして放っておくのかがわかります。そうかも知れない、と。

神は地上に生きる子どもにとっては父であり母である存在です。母というのは、神の心、精神、精霊という命的な側面です。五感の対象となるあらゆる現象は地上の子どもたちの魂を養い育てる神の命的母的側面です。

人間が罪を克服できず悪を重ね増大させるのを見て父としての神が「おのれっ! 腐った人間どもめが。ぶっ殺してやる!」と怒り、棒を振り上げた時、母としての神が「お願い待って。私がうまく導けなかったからこうなってしまった。責任は私にある。私が代わりに苦しむ。きっと人間立ち直るから、それまで私を叩いてちょうだい、人間たちが立ち直るまで私を叩いてちょうだい!」と懸命に言うので、神は自分で自分の命を叩いているのではないか? 

もしそうだとすれば、なぜこれ程酷い状態なのにそのまま放って置くのかが理解できる。

みなさんはこの仮説をどう思われますか?

 

なぜ神は沈黙しているのか

仏教に出会ったのが昭和の終わりですからもう三十年が過ぎました。途中からはこの宇宙の主宰者である、永遠のブツダ=神、の存在を確信するようになりました。そしてその存在を想定することにより人生の意味を理解し納得できました。

また海やカニ、夜空の星、花などに表れている神の「涅槃妙心」に想いを寄せるたびにその慈悲の心を実感します。

この気持ちはずっと変わることなく今でも同じ思いなのですが、数年前からある一つの点で神に対して不信感を持っています。なぜなんだろう?という思いです。

それは世界がこれほどひどくなっているのになぜ神は沈黙しているのかという疑問です。この数百年、自由、平等、理性、文明などを追求してきた挙げ句起きたのが二十世紀の大量殺人、膨大な自然破壊と深刻な環境汚染です。

これらは大乗仏教徒からすると神が最も嫌うことに思えるからです。自然現象は神の知恵です。迷いの霊を救うための神の慈悲の心から現れてくるものです。従って自然破壊や環境汚染はその慈悲の心を冒涜し踏みにじることになります。神が一番嫌がることとしか思えない。

自然破壊や環境汚染は2〜300年前から始まっていますよね。産業革命の頃から特にひどくなり、20世紀の後半には空気、水、土壌などが相当に汚染されました。

それなのになぜ神はそのまま放ってきたのか、大変不思議です。神はずっと人間の行為を見守ってきたでしょうから。

人間滅びるかも?地球も滅びるかも?というところまで行かせて人間を立ち直らせようとしている、という解釈ももうひとつスッキリしません。人間の戦争以上に神にとっては嫌なことのはずだから。この数百年なぜ黙って見ているのか?なぜ放ったらかしのままなのか?(続く

救済について 仏教とキリスト教

大乗仏教キリスト教は「救い」を言います。ただその内容は異なるようです。

私の理解ではキリスト教の救いは、人間はアダムとイブに起因する「罪と死」の奴隷になっているのでそれから開放されることのようです。

仏教の救いはそれだけではありません。罪と死から解放されることも一応救いと言えるでしょうが、開放されたことによりその後多くの迷いの霊が救われる、という救いです。神の救いの業が成就しやすくなるという意味です。

神が世界を創造したのは様々な迷いの霊を救うためです。仏教は空無を単なる無とは考えません。空無は潜在的に無数の迷いの霊と精霊を含んています。私は前にこれを真空と物質と反物質に例えて説明しました。

迷いの霊とは真理ではない霊で、自分と他をわけて自我に執着するエゴの心、悪質なものでは暴力、憎しみ、差別などの他を排斥する心です。誰もがそのような迷いの霊を背負わされています。その迷いの霊を救うためにこの世に生まれてくるのです。

キリストの「多くの良い実を結ぶ」がこれに当たると私は思う。罪と死から解放されないと多くの良い実を結べません。

なお、知恵の木の実を食べると死ぬことになる、の死は生物学的な死のことではないと思う。生物学的な死を絶望的なことと考えるようになる、あるいは本当の生き方ができなくなる、生きていても死んでいるのと一緒、というような意味だと私は考えます。

仏教で見性している人は「父母未生以前の面目」と表現するように本当の自分はこの世に生まれてくる前からあった存在、死んでも無くならない存在という境地を体得しています。多分アダムとイブが罪を犯す前は誰もがそのような境地にいたのだと思います。

 

「神の目的」「人生の目的」についてはこのブログの第一話から第四三話までで説明しました。どうぞ読んでみてください。

https://kosame21.hatenablog.com/entry/2021/09/07/124900