kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

猿婿入り

日本のどの地方にも三人姉妹の末娘が猿と結婚する話があります。内容は大体一緒のようです。次のものはどの地方かわかりませんがそのまま写してみます。

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昔あるところに、爺様と三人の娘がいたど。山の畑の草があまり生えているから爺様が「だれかこの草取ってけだら、娘一人嫁ごにけるがな」と独りごと言ったど。そしたら山の猿が聞きつけて、その草をみんな取ってけだど。約束して猿は帰るし、爺様は心配になって娘に相談したど。上の姉は「だれ猿などの嫁ごに、やんたます」って断ったど。中の姉も「だれ猿などの嫁ごに、やんたます」って断ったど。末娘が「おれ行くがら、爺様心配すんな」って猿の嫁ごに行ったど。

里帰りの時、娘が「おらえの爺様、餅好きだがな」って言うから、猿は餅をついたど。また、娘が「おらえの爺様土臭いのきらいだがな」って言うから、猿は臼のまま餅を背負ったど。途中まで来たら、娘が「爺様、藤の花っこ好きな人だがな」って言うから、猿は臼を背負ったまま木さ上がったど。娘が「もっと上、もっと上」って言うから、一番上の枝にとっついたら、枝がポキーンと折れて猿は臼を背負ったまま真っ逆さまに淵さ落ちてしまったど。そして川下に流されて行きながら、こんな歌をうたったど。

猿沢や 猿沢や 流れ行く身は いとわねど あとのお文こ 嘆くべじゃやい

どんどはれ

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ここでは藤の花ですが桜の花のところもあるし、地方により少しずつ違いますがあらすじは同じです。ここには書いてありませんが最後に「猿が沈んだり流されていったのを見て、娘が喜んで家に帰った」という話も多いです。

そのせいでしょうか、猿が気の毒だという人が多いですね。「三女の何という無情さ」「不条理な物語だ」「猿は猿というだけでひどい目にあわされる」「娘の策略で谷川に落とされてしまうなんて」などなど猿に同情的な発言に満ちています。

私はこの話を全く違うふうに解釈しました。この昔話はどちらにとっても目出度い、喜びの話、祝いの物語と解釈しました。

最後の「どんどはれ」はよくわからず、その時は「お終い、お仕舞い」とか「どうだろうこの話」などの意味かと想像していたのですが、だいぶ後になって「めでたし、めでたし」の意味と知り、一層自分の解釈に自信を持ちました。

猿は男性の性的器官、臼は女性の性的器官のたとえと見ます。餅の意味ははっきりしません。仏教で言う完全な智慧のようなものかもしれませんが、確信は持てません。

「もっと上、もっと上」というのは性的興奮が少しずつ高まっていくことだと思われます。ボレロという楽曲がありますがあの感じです。同じリズム同じメロディーが何度も繰り返され、最初のうちは楽器が一つか二つだったのが次第に多くなり、演奏も強さ大きさが増していく、そして最後に劇的に終わるあの曲です。

「枝がポキーんと折れて」というのが性的絶頂、射精の瞬間のことです。川に落ちて沈む、死ぬというのは彼岸に行くことで仏教で言う到彼岸です。川は昔からあの世とこの世の境界とされています。前にも説明しましたが、男性の性欲とは暴力・破壊という迷いの強い霊が救いを求めたものであり、神の智慧と力である性的エクスタシーと女性により救われます。

迷いの霊が悟りを得てあの世に渡ったのだから、そこへ導いてやった娘が喜ぶのは当然です。神話や昔話で「殺す」「死ぬ」などのことばがよく出てきますが他の生命を殺めることではないことが多いと思います。大乗仏典にも「私は敵軍を皆殺しにして仏になった」という話がありますが、決して戦争とかで人殺しをするのではなく、自分の中に潜在的に存在する無数の迷いの霊、先天的煩悩を救って彼岸に渡らせた、という意味です。

男性の性的器官を猿に見立てるのは日本猿の顔が赤いことや戯れる(ざれる)性質からたとえたのだと思われます。  どんどはれ。