kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

法華経常不軽菩薩品

法華経の常不軽菩薩品に次のようなところがあります。

***

正法滅してのち像法の中において、増上慢の比丘大勢力あり。その時に一人の菩薩比丘あり、常不軽と名ずく。得大勢、何の因縁を以てか常不軽と名ずくる。この比丘凡そ見る所ある若しは比丘・比丘尼・ウバソク・ウバイを皆ことごとく礼拝賛嘆して、この言をなさく、「我深く汝らを敬う、あえて軽慢せず。所以はいかん、汝ら皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べしと。」而もこの比丘、専らに経典を読誦せずして、ただ礼拝を行ず。乃至遠く四衆を見ても、亦復故らに往いて礼拝賛嘆して、この言をなさく、「我敢えて汝らを軽しめず、汝ら皆当に作仏すべきが故に」と。四衆の中に瞋恚を生じて心不浄なるあり、悪口罵詈していわく、「この無知の比丘、何れの所より来たって、自ら我汝らを軽しめずと言って、我等がために『当に作仏することを得べし』と授記する。我等この如き虛妄の授記を用いず。」と。

この如く多年を経歴して、常に罵詈せらるれども瞋恚を生ぜずして、常にこの言をなす、「汝当に作仏すべし」と。

この語を説く時、衆人或は杖木・瓦石を以て之を打擲すれば、避け走り遠く住して、猶お高声に唱えて言わく、「我敢えて汝らを軽しめず、汝ら皆当に作仏すべし」と。其の常にこの語をなすを以ての故に、増上慢の比丘・比丘尼・ウバソク・ウバイ、之を号して常不軽と為く。

***

何か面白い話です。増上慢の者たちに棒で叩かれたり石をぶつけられても逃げ去って遠くから礼拝するというのですから、よほど人格的に立派な人なのでしょうね。

ただ、「深く敬う」とか「仏になるからです」と礼拝されて瞋恚を生ずる、というのは私にはもうひとつ不自然な感じがしました。比丘たちは増上慢であるがために「作仏することを得べし」と予言されたことが腹立たしかったのでしょうか。

ある時ひとつの思いつきがありました。ここに出てくる「杖木、瓦石でもって打つ」衆人とは蚊やハエなどの小動物のことではないでしょうか。蚊が血を吸った上に不快なかゆみを置いていくことや、ハエが人の鼻の頭をはじめあちこちに無遠慮にとまりうるさいという不快感を与えることを「杖木、瓦石でもって打つ」と譬喩的に表現しているのではないかと思ったのです。

蚊やハエだけでなく、アブやブヨやハチなどの痛みやかゆみを与えるもの、また人の目のあたりにまとわりついて不快感を与えるもの、そういう小動物を増上慢の衆人にたとえているのではないでしようか。

こう考えれば、「深く敬う、あなた方は仏になる」と礼拝している常不軽菩薩の思いなどに関係なく、不快感を与える行動が納得できます。虫ですから。

「敢えて軽慢せず」とか「敢えて汝らを軽しめず」という表現も小動物だとぴったりです。それと、衆人に打たれて「避け走り遠く住して、猶お高声に唱えて言わく、我敢えて汝らを軽しめず、汝ら皆当に作仏すべしと」という態度は何とも言えずほほえましいというか、やさしく思いやりのある感じが示されているように思えます。私自身は過去多くの場合蚊を叩いてしまいましたが、常不軽菩薩のような人が今もこの日本に結構いることを知っています。

このように、嫌な思いを与える小動物でも決してその命を軽んじないという心がやがて仏になるのだよ、とこの章は示しているのだと私は解釈しました。