kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

神の存在

私が神の存在を信じるようになったのは仏教の大乗経典を読むようになってからです。四十代半ばを過ぎていました。それまでは全くの無神論者でしたし、あの世というものも存在しないと考えていました。

普通の無神論者と同じように、人間はどうしても死の問題を解決できないので、神とかあの世を考え出すのだと簡単に決めつけていたのです。

ところが四十五歳の時に般若心経という本を読んで驚き、他の大乗仏典を読んでいくうちに神とかあの世を信じるようになりました。主だった大乗仏典はけた違いの文章であり、内容は緻密で奥深く、また自分の直観には反していても(一即一切、一切即一など)信じさせてしまう論説であり、その説法者はどう見てもこの宇宙の主宰者あるいはそれに通じている人としか考えられませんでした。

それと、自然現象や命や心のはたらきは、よく考えてみるとあまりにも不思議すぎると思うようになったことも神の存在を信じることになった理由です。それまでは不思議だとは思っても、とにかく自然に起こっていることは当たり前で自然なことなのだと決めつけていました。

でも少し考えればあまりにも不思議すぎることが多いです。植物の種はあれだけ小さいのにその中にすでに多くの葉や美しい花や実を生み出す可能性を持っています。動物、たとえば人間でもそうです。精子卵子が合体したときは細胞は一つです。それがまるでビッグバンでも起こったかのように猛烈な細胞分裂を繰り返し、数ヶ月したら目や耳やいろいろな内臓や骨や血液やらを備えた存在になるのですから、単なる自然法則では不可能だと考えるようになりました。

細胞が分裂増加してものすごい数になる、大きくなるというだけだったらまだ物質の法則と思うかもしれません。しかし人の体のような複雑なものは物理とか化学の法則ではまず無理でしょう。

しかも感覚器官の不思議さを思うとなおさらです。たとえばなぜ目はものを見ることができるのか不思議です。生き物が発生する前は物質しかなかったとして、何らかの原因で細胞が発生した、それが何らかの原因で多細胞になった、そしていつどのようなことを原因として目ができてものを見ることができるようになったのだろう。神経細胞ができてそれが働くから、ではなるほどとうなずけないのではないでしようか。

でもまあいいです。何らかの原因でものを見ることができるようになったとしましょう。光がものに当たりそれが反射して目に入るので光の量によって明るかったり暗かったりする、初めに目を持った生き物の見た映像は白黒写真のようなものだったでしょう。それがいかにして赤や青や黄色のような色として見ることができるようになったのだろうか。今の物理学でも電磁波自体には色というものはないと言っています。それなのになんであれほどはっきりした美しい色を見ることができるのか、これほど不思議なことはないです。

もし飛び抜けて優れた人がいて、その人が生まれつき目が見えなかったとして、大変説明の上手な人から、赤とはこんな色、青とはこんな色、、、、、と聞いてその色を想像することができるでしょうか。無理ですよね。何千年、何万年毎日考えても到底不可能でしょう。それほど不思議なことを普通の人の誰もが知ることができるのです。やはり何らかの偉大な存在を考えたほうがよいのではないか。人間の知恵などでは到底思いはかることのできない偉大な知恵と力を備えた存在です。

ではその存在は何のために目や色を発明したのか。それは目を持つ生き物に見る喜びを与えるためであると思われます。その時々に出会った事象の良さや美しさが潜在的な迷いの霊を浄化してたましいをより良いものにします。

喜びといえば性的エクスタシーも大きな喜びですよね。前にも言いましたがあの絶頂感の時は男性は暴力・破壊というサディスティックな迷いの霊が救われています。あのような感覚は神という存在を想定しないと考えられません。今の私にとっては神が存在することの有力な証拠です。

ただ、私が決定的に確信的に神を信じるようになったのは大乗仏教を学んで行って人生の意味目的を納得した時です。現実の世界や自分の心のありさまを説明するのに、無神論唯物論や適者生存の進化論などより神が目的を持ってこの天地を司っていると考えたほうがはるかに理にかなっています。

人生の意味目的についてはこのブログの最初から第43稿「新しい時代に向けて」までに書きましたので是非多くの人に読んでもらいたいと思っています。