仏教の経典に「死んで星になる」ことを暗示している文章があると言いましたがそのことについて。
法華経の一節に次のようなところがあり、少し長めですが口語訳で書いてみます。
***「シャリフツよ私は今ここでおびただしい天人や人間たちの前で、お前が未来に仏となることをはっきりと宣言しましょう」「おおっ」とシャリフツは踊り上がって喜んだ。、、、、、、。と同時に霊鷲山を埋め尽くした無数の大衆もまた喜びの声を上げ、歓声はさながら雷鳴のように響いていった。
やがてどよめきが静まると釈尊は語りだした。「シャリフツよお前は来世においておおぜいの仏に仕え、人のために尽くす菩薩の道を修めたあと、華光如来という完全な悟りを得た仏となります。そしてその仏国土は離垢と言います」「その仏国土はどのようなところでございましょうか?」シャリフツは感激でのどをつまらせながら尋ねた。
「国土は清らかで美しく食料も豊かで争いがありません。おおぜいの天人や人間が快適に暮らし、数え切れないほどの仏に仕えて、衆生の救済に当たってきた菩薩たちで満ちているのです。そして道には瑠璃が敷き詰められ、金、銀、めのうなど七つの宝玉でできた並木があって、常に花と実をつけています。それはそれは美しいところです」シャリフツは我を忘れ、目を閉じてはるかな自分の仏国土を思い描いた。 ***
以上法華経から引用しました。一般的に言って大乗経典は日常の世界を超越した霊的な世界が直観的に表現されているので、文章の意味するところを正しく知る、正しく悟ることは簡単ではありません。従ってこの文章も完全には理解できませんが、解ったと思うところを説明します。
まず、来世において修行したあと仏になるとありますが、この場合の来世はいわゆる寿命が尽きて死後別の命に転生するということではなく、寿命が尽きるまでの今後の人生においてということだと思います。前にも言ったように仏教では瞬間瞬間に生まれ瞬間瞬間に死ぬと考えるからです。
寿命が尽きてから輪廻転生するという前世、来世もありますが、それはその人の一生で悟りを得ることができなかった色々な霊が、異なる時代に異なる個体に宿り、再び悟りを目指すということだと思います。たとえば餓死していった生き物がいますが、その霊魂全体が転生するのではなく、食物を求めて得られなかった霊、その時に悟れなかった霊が転生するのです。従って経典に出てくる未来世は多くが今後の人生を意味していると私は解釈します。
次に「仏になる」というのは「光を放つ星になる」または「星の世界に住む」ということです。「華光如来」とはいかにも星の光らしい名前ですね。決してこじつけではなく、神の存在を信じられれば、何らかの思いを込めて星空を見せており、実際に感性の豊かな人はそれを感じ取るのですから、星と成仏した仏はぴったり合うのではないでしょうか。
他の経典にも同じような表現があります。小品般若経のある章に「あなたは将来アシュク仏のもとで修行してやがて金華(こんけ)という仏になるだろう」と仏が予言することばが書かれています。金華というのもいかにも星らしい名前です。
しかも大乗経典は直接「夜空の星のようなものになる」とは言いません。星空が何を意味しているか探求しなさいと人間をうながし導いているのです。
またその仏国土がそれはそれは美しいところだと色々に表現していますが、一切の苦しみのない涅槃の世界を霊的な食べ物や宝玉でたとえているのだと思われます。それをこの世の衆生には星という光の世界として核融合反応で示しているのです。
あともうひとつ法華経のこの一節でわかったことがあります。
高弟のシャリフツの喜びようが何かすごいですよね。「踊り上がって喜んだ」「感激にのどをつまらせ」「我を忘れて目を閉じて」など大げさな表現が続きます。
この一節を普通に読んだら誰でも大げさ過ぎると思うのではないでしょうか。実はここにはちゃんと意味があります。
「このように星になるのです」という仏の声を聞いて夜空の星を想い浮かべると誰もがシャリフツのようにエロスの心をいだき感激するであろう、ということをさり気なく示しているのです。
「踊り上がって喜んだ」「感激にのどをつまらせ」「我を忘れて目を閉じて」の心の時には様々な無明、迷いの霊が浄化され、たましいが豊かになって行くということを暗に秘めてこの文章は書かれています。法華経らしい巧みさがよく現れているところだと思います。