kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

放蕩息子 仮説

ルカによる福音書に「放蕩息子」のたとえ、という話があります。少し長いですが書いてみます。

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「ある人に息子が二人あった。弟が父に『お父さん。私に財産の分け前をください』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産をつかってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。

それでその国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのに私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持ってきて、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

ところで兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえて来た。そこでしもべの一人を呼んで、これはいったい何事か戸訪ねた。しもべは言った。『弟さんが帰ってこられました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出てきてなだめた。しかし兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったてはありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒に貴女の身上を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると父親は言った。『子よ。お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

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この話の一般的な解釈では「弟(放蕩息子)」は罪人である人間(異邦人、取税人、遊女たち)、「兄」はパリサイ派ユダヤ人を指しているようです。私はパリサイ派ユダヤ人はイエス・キリストが最も嫌う、神から最も遠い存在、とみなしていたと思うので上記の解釈は有り得ないと考えます。

このたとえ話は、なぜこの世界に大型の肉食獣が存在するのかを説明しているのだと思いました。神を信じて救いを求めれば非常に迷いの強い霊でも神は救う、という話です。

放蕩息子が父の元に帰ろうと思った時よりも前の話はよくわかりません。たぶん霊的世界のことで、財産を使い果たしたと云うのは、それまでの食べ物、草葉や木の実、草の実、また虫や魚などの小動物では満足できなくなってしまった事を言っているのかもしれません。

一番良い着物を着せたと云うのはライオンのたてがみやトラの美しい毛皮を意味し、手に指輪をはめさせたとは鋭い爪を与えたことで、足に靴を履かせたとは非常に速く走れる足を与えたということです。そして野生の牛や馬を追わせてその肉を与え、草食獣の肉のようなものでないと満たされない非常に迷いの強い霊を救う、ということだと思われます。

イエス・キリストはたびたび自分を信じる人たちと宴会をしたようですが、美しい着物を着せるとか指輪をはめさせるような話はしておらず、人間界の話として解釈してはおかしいのではないか? 私の解釈ならぴったりな気がしますがどうでしょうか。

この祝宴の様子を見て兄が怒って父に不平を言いますが、この兄とは鹿や馬などの草食獣、あるいは草木の実や虫を食べる鳥などのことではないか?

父は兄をなだめて「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。、、、祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と言います。これもはっきりとはわかりませんが、草食獣や小鳥のほうが柔和で神に近い感じです。兄に当たる生き物には生まれてくる前から肉食獣の存在を受け入れるようにすでに諭されているということのような気がします。

あとひとつ、兄が弟のことを「あなたのあの息子が」と父親に言っています。弟と言わずにあの息子という言い方は、人間同士より種類の異なる動物だったらよくわかります。