キリスト教の教学には奇異というか首をかしげる面をかなり持っています。神は愛でありその愛の対象は人間だけであるとしていますよね。このことを初めて知ったのはたしか二十歳の頃だったと思います。
その頃は宗教には関心がなく、神の存在も信じていませんでした。それでも何かの本でキリスト教は人間だけが神の愛の対象であるとしているのを知った時には奇異な感じを持ちました。
神が万物を創造したとして、ペットを始めとして様々な動物はどれも喜び、怒り、恐れなどの心を持っているのに、人間だけが愛の対象と云うのはとても信じられませんでした。人間は確かに文明を持っている点で特殊なところはあるけれど、人間同士の戦争や差別またかなりの生き物を絶滅させたりとかむしろ人間が一番悪い存在なのではないかと考えたりしましたから。
それ以来キリスト教には関心を持たなかったのですが、仏教に関心を持ってからはキリスト教の勉強も始めました。そして教学の面では色々と疑問を持ちました。神が『地を服従せしめよ』と言ったこと。終末論や文明に対する考え方など、私が仏教で学んだ価値観から見ると正直言って、何か変だなという感じでした。
そしてあとになって、旧約の冒頭の「神に似せて人を作った」と「地を従わせよ」を文字通り神の意志と解釈したから色々と偏った教学になるのだと私は理解しました。
あともう一つ私が違和感を持ったのは、イエス・キリストは全人類の罪を贖うために十字架にかかった、という教理です。
イエスが贖ったから人間に救いが生じた。イエスの十字架がなかったら人間に救いはないということですよね。イエス自身は何ひとつ罪を犯していない。全人類は皆罪深い、本当は全人類が裁かれなければならないのだが、神の子であるイエスが全人類の身代わりとなって十字架にかかり復活した、それにより人間が救われるようになった、という教理です。
私はこの教理に違和感を持ちました。神が人間の罪と死を救うためにそんなことをするだろうかという疑問です。イエス・キリスト自身は死んでも死なない、天に帰るということをあらかじめ知っていた人です。また以前言ったように臨死体験の境地ぐらいならすぐ往ける人です。
そのような神のこの世での死が全人類の身代わりの刑死という考えはどうも納得できませんでした。鈴木大拙という西洋に仏教を広めた人も同じようなことを言っていたと記憶します。「神がそのようなことを意図するというのは何か変だ」のように。
しかしキリスト教が始まって以来、膨大な数の人たちがキリストの十字架死をそう受け取ってきたのですよね。「自分は罪深い人間だ、本当は神に裁かれても仕方がない存在だ。それなのに神の独り子であるイエスが私の罪を贖うために十字架上で死んで下さった」と信じ、そこに多くの人たちが神の愛を感じてきたのですよね。
これだけ多くの人たちがそう信じてきたので、神は今それを示しているのではないか?
私は最近その可能性を考えるようになりました。つまり人間がどうしても立ち直らないので、神が全人類の身代わりとなって自分自身を罰しているのではないかという考えです。
そう考えると神が今なぜ沈黙しているのか、地上がこれほど荒れ果てているのに、神が最も嫌う有様なのに、なぜそのまにまして放っておくのかがわかります。そうかも知れない、と。
神は地上に生きる子どもにとっては父であり母である存在です。母というのは、神の心、精神、精霊という命的な側面です。五感の対象となるあらゆる現象は地上の子どもたちの魂を養い育てる神の命的母的側面です。
人間が罪を克服できず悪を重ね増大させるのを見て父としての神が「おのれっ! 腐った人間どもめが。ぶっ殺してやる!」と怒り、棒を振り上げた時、母としての神が「お願い待って。私がうまく導けなかったからこうなってしまった。責任は私にある。私が代わりに苦しむ。きっと人間立ち直るから、それまで私を叩いてちょうだい、人間たちが立ち直るまで私を叩いてちょうだい!」と懸命に言うので、神は自分で自分の命を叩いているのではないか?
もしそうだとすれば、なぜこれ程酷い状態なのにそのまま放って置くのかが理解できる。
みなさんはこの仮説をどう思われますか?