kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

大円鏡智 精霊のはたらき

哲学用語としての「真理」とは「主観がその対象の本質を正しく把握すること」のようです。すなわち「主観(自分の思考)の理性による認識と客観(思考の対象)の本質の一致」すなわち「主観と客観の一致」です。

さあこれを理性ではなく感性に適用しましょう。

皆さんの記憶に残っている非常に美しい風景を思い浮かべてください。その見事さに、しばらくの間我を忘れ茫然として見とれていた。そういう経験は誰もがしていると思います。

その時の状態ですが、いわゆる理性などとは関係なく主観と客観が一致しているはずです。主観と客観を区別するところの我を忘れたのだから一致です。茫然自失というようにボーッとなって自分を失って一致しました。

真理を感性に適用しようと言いましたが、対象の感性的本質である「美」と自分の心の中の「美」が一致したのだから真理です。自分の心も美しくなっています。自分とあい対する対象の本質を知るという真理なのでこの時の感覚は相対的真理と言えると思います。

それとは別にこの相対的真理により何かが真理になっていませんか? 話をわかりやすくするため簡単に言います。その風景の美しさにより自分の霊魂の中の「みにくい」という真理ではない霊が浄化されてどんどん真理になっているのです。

主観と客観が美で一致し、その相対的真理により無知な霊が真理になり、つまり無明が光明になり、たましいの中心の光がそれ以前より豊かになっています。

 

前に霊魂の構成のところで、精霊とは具体的に迷いの霊を救う存在と言いました。

自分の中の美しくなった心が「みにくい」という迷いの霊を救い、浄化したのですからこの時の美の心は精霊であると言えます。

そして自分の心と一致したのですからその時のその風景(たとえば富士山)も精霊であると言えます。

霊魂の構成のところで内ではたらく精霊と外ではたらく精霊があると言いましたが、この時の富士山が外ではたらく精霊です。

この富士山という精霊はもともと霊魂の中にあったものです。それを奥底の神が神通力で外界に投影しているのです。だから一致できるのです。

ここで結論から言いますが大乗仏教はどれも唯心論です。物質は実在しないと言っています。目の前の現象は夢と同じようなものだと。霊魂の中の神が見ている夢、仏教的に言うと永遠のブッダが三昧にふけっていると。

いきなり唯心論を言われたら誰でも信じられないでしょうが、当然ですしそれでいいと思います。外界のものは自分のたましいの中の精霊を引き出してくれるもの、でいいと思います。

夢と同じようなものだということを境地的に知っている人たちがいますよね。禅宗の見性大悟に至った人です。この人たちは本当の自分は、自分と他を分けている普段の自我意識ではなく、奥底の永遠のブッダであることを境地的にわかるようです。自然現象は全部自分であると言っています。

私自身は、見性していませんが今では唯心論が正しいと信じています。大乗仏典もみな示しているし、禅宗のかなりの人が見性しているし、インドの偉大な法師たちもみな唯心論ですね。教理的にも唯心論のほうが理にかなっていると思うようになりました。

唯心論とは違うのですが、ある話を紹介してみます。だいぶ前に見たあるテレビ番組でのことです。建築家だつたでしょうか。富士山が好きである時から富士山の近くに住所を移し、朝な夕なに富士山の写真を撮っていると言ってました。あるときは雄大な姿、あるときは清らかな姿、またあるときは、、、という具合に様々な姿を見せてくれるので何枚撮っても飽きが来ないと言っていました。

それで「富士山を撮っているのだが実は自分の心を撮っているのだ。その時々の自分の雄大になった心、清らかになっている心を写真に撮っているのだ。」と言っていました。なかなか鋭い見方だと思います。

富士山のような景色だけでなく、清流の清らかなせせらぎの音で一致すれば不浄な霊が真理になるし、花のふくよかな香りにも何かが浄化されます。さらに日本人ならわかると思いますが、自分の身に危険がない限り、どんな自然現象でも良いと思うのではないでしょうか。

雨の景色もそれなりにいいですよね。「雨よふれふれ、悩みを流すまで」という歌がありましたが、実感できます。カエルが古池に飛び込んだときのようすにうなずく人も多いと思います。木枯らしの声でさえも暖かい部屋の中で聞く分にはそれなりに良いと思うのではないでしょうか。

この、いいと思って自然現象を味わっている時は常に浄化されてたましいが豊かになっているのだと思います。

つまり自然現象は無明を光明にしてたましいを豊かにして行く精霊であると言えます。

先ほど外界に投影していると言いましたが、大乗仏教ではこのことを大円鏡智と言います。霊魂の奥底のブッダがその悟りの境地を大きな円かな鏡に映して外界に投影している、そういうブッダの智恵のことです。

永遠のブッダはもともと絶対的真理であるはずなのになぜ悟る必要があるのか。それはブッダ自身は真理であるが自分のそばに無数の迷いの霊がいるので大いなる憐れみの心を起こし、それらを全部救おうとしているからです。

この大円鏡智に関連して古事記のある話に触れてみます。

天孫ニニギノミコトが天降りをする時に天照大神が「私の御霊(みたま)と思って大事にしなさい。」と言って「やたの鏡」を手渡します。これは何を意味しているかというと私の解釈では、天照大神の御霊をやたの鏡で映したものがこれからニニギノミコトが生きる地上の世界、すなわち自然のことであり、見るもの聞くもの食べるものなどすべての自然を大切にしなさい、とそういう事を意味しているのだと思います。

天照大神の御霊=精霊です。この私の解釈はほぼ間違いなく正しいと自信を持っています。仏教では仏の慈悲の心です。

この宇宙の歴史でその時々にこれが今の私の悟った真理ですよとあらゆる生き物に開示・啓示をしているのです。無明を救うたびに永遠のブッダも豊かになって行きます。

小宇宙であるあらゆる生き物がその一生でたましいを豊かにして行くのと同様に、大宇宙の主である永遠のブッダが豊かになろうと、永遠の寿命で修行しているのが宇宙の歴史です。