kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

本当の空(くう)

前に永遠のブッダは迷いの霊を救うためにわざわざ方便としてどの迷いの霊にもその肉体を自分だと思わせていると言いました。この理由が前回の「主観と客観の一致」の話でわかると思います。

迷いの霊は常に自分の心と肉体、そしてそれ以外の物質現象、と自と他を分けていますよね。從って自と他を分けない境地になった時が救われた、真理になったということです。

我を忘れて見とれたときは自と他が一致しており、分けていない境地です。ブッダのたくみな救いのわざが成就しています。

この自我意識のない境地を「人空」というのですが、これから私の理解した「本当の空」について法空も含めて説明してみます。

本当の空の意味は「実在しない」です。初期仏教の「無常無我だから固定された実体は無い。」という意味ではありません。大乗以前の仏教は物自体は実在しているとしていますよね。大乗は唯心論で夢と同じであり物質は実在しないと言っています。これが本当の空で空っぽ、ゼロです。

大乗仏教が示している空には二つの意味があると思います。一つは思考で知的に知ること、もう一つは境地的に知ることです。基本的にどちらも「実在しないことを知る」のが「空を知る」ことです。

まず初期仏教の人空を知的に知るとは、あらゆる現象は絶えず変化しているのだから固定された我のようなものは存在しない、人間の肉体も心もそうだから名前で示されるような我というのは実在しないことを知る、ということです。

次に境地的に人空を知るとは無我の境地のことです。いわゆる涅槃の境地です。無我であるならば自我に執着してもしょうがないと、何ものにもとらわれることなく、自由で平安の境地にあるときが涅槃の境地なのだと思います。この涅槃の境地が境地としての人空です。

つぎに大乗仏教の人空について。知的に知るのは初期仏教と同じです。境地的に知るのは自然現象と一体となった時の境地です。我を忘れた無我の境地ですよね。初期仏教と違って縁起している諸法と一体になった時の自我意識のない空の心です。

では大乗仏教が示す法空について。まず知的に知ることですが、これは龍樹が中論でしきりに論理的な説明をしています。彼の論法はもう一つ理解できないのですが、肝心なのは、実在するものが変化することはあり得ない、という点だと思います。

「無自性だから空である」は「自性がなく変化しているということは実在しないということだ。」の意味です。決して固定的な実体は無いという意味ではないと思います。初期仏教は無我を言っても物質自体はあるとしています。龍樹の論理はそれを延長した「無我であるからには実在しない」です。

ギリシャパルメニデスという哲学者も物質は実在しないと主張しています。有るものは有る、無いものは無いと言って、有るものが無くなったり無いものが有るようになることはあり得ないと言いました。自然現象は絶えず変化して有るものが無くなったりしています。だから物質は実在しないと主張しました。

彼の高弟のゼノンが有名なパラドクスを説いたのもその延長ですね。「アキレスは亀に追いつけない」とか「飛んている矢は静止している」と言って理屈でもって示しましたが、主流にはならなかったようです。

今の私の見方からするとゼノンは詭弁家ではありません。アキレスも亀も矢も実在しない。物質が存在するという考えは論理的におかしい、理性的ではないと実にたくみに説明していると私は思います。龍樹よりわかりやすく感じました。

ある人が、1/2 +1/4 +1/8 +、、、、、という無限級数が1に収束することを知らない単なる屁理屈だ、と言っていましたが私はそうは考えません。物質が実在していてそれが動いたということは無限の数を数え切ったことになり、それは不可能であると言ってるのだと思います。

ただし前にも言いましたように、物は実在しない、唯心論のほうが正しいとは多くの人が思えないでしょうから、それで構わないと思います。「実在しない、空である」ことを知的に知ることより境地的に知ることの方が「生きる意味」にとってはるかに重要だからです。

境地的な法空については次回に。