kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

善因善果 悪因悪果

ルカ福音書にキリストの十字架の時一緒に処刑された対照的な二人の犯罪人の話があります。

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十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」するともう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。

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普通に考えると、それまでさんざん悪いことをしてきて、最後の最後に反省しただけでその人間が救われる、というのは同意しにくいですよね。いくら何でもおかしいと。

しかし私の今の教学では全然おかしくありません。改心した犯罪人のその時の霊は救われるからです。その時の心は良い実を結んだのです。それまでやってきた悪は全部捨てられるのだと思う。

最後の審判で「おまえは地獄。おまえは天国。」と振り分ける話が出てきますよね。あれは名前で示されるような個人個人のことではなく、ある一人の霊魂の中のその時々の霊が救われたり捨てられたりするのです。一つの霊魂はさまざまな霊から成り立っているからです。

仏教でいう善因善果、悪因悪果もこれに通じます(善因楽果悪因苦果とも言うようです)。

この世、現世においては善因善果、悪因悪果は必ずしも成立しないことは誰もが同意してくれると思います。善因でも不運不幸であったり、悪因不悪果のケースを見ていますから。

しかしあの世においては善因善果、悪因悪果が成立するというのが私の考えです。良い心と行いはどれもが浄土に生まれる種を結んだことになります。もしこの世では運悪く悪い結果を招いたとしても、あの世では受け入れられます。イエス・キリストも多くの良い実を結ぶようにと教えていますがこのことだと思われます。

逆に悪い行いはみな捨てられるのです。「永遠の地獄に落ちる」ということばの意味は、捨てられた悪の霊は救いが一番最後になるということです。「一切の迷いの霊を救う」と「永遠の地獄に落ちる」は矛盾しません。神は永遠の時間をかけて救いの業をやっているのです。無明が尽きることはないから。その永遠の時間の最後に置かれるのだから、永遠の地獄に落ちたと言えます。