kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

死は一つの救いの法門

この辺で「死とは何か」について話してみたいと思います。

おそらく人間だけが命の危険がない時でも死のことを考えて思い悩むのでしょうね。私も確か中学一年の時に死を意識しました。名前で示されるような自分という存在が生まれてから死ぬまであって、死によってその活動が止まり永遠の無になってしまうんだと思った時は本当に恐怖でした。

寝ている時は無の状態であり、ひょっとしたら明日目が覚めないかもと考えると寝ることにも少しの期間ですが不安を持ったことを覚えています。

また他の生き物では寿命の途中でより強い生き物に捕まって食べられてしまうことが多いし、人間ももしライオンや虎のような猛獣が周りにたくさんいたり、恐竜や巨大なくもがいたら追いかけられて食べられてしまうかも、と考えると恐ろしくて恐ろしくてこんなこと想像するだけ損だとなるべく考えないようにしていました。

それでも本を読んだりニュースなどで人の死に触れたり、また人生の目的などを考えたりするとどうしても死のことに行き着いてしまいます。

ただ二十歳のころ考えた死には新しい二つの疑問がありました。

ひとつは、自分という人間は生まれてくる前は永遠の昔から存在していなかった、そして百年足らずで死んでまた元の無に帰る、それなのになぜこんなに怖いのだろう、という思いです。

もうひとつは次のようなことです。

自分という存在が無になるのが怖いのだけどその自分というのが非常にあやふやだ、両親、その両親、そのまた両親と先祖をたどって行ってどこかで二人が出会わなかったら今の自分はいないはずです。

同じ両親でも兄弟姉妹一人一人人格が違います。ということは今の自分はとてつもない偶然の存在です。そんな自分なのになぜ死ぬのがこんなに嫌なのだろうという疑問です。

いくら考えてもわからなかったです。本能的に死を避ける心があるのはわかります。他のどの生き物にもありますからね。理屈では全く納得できませんでした。

年輩の有識者もかなりの人が「誰もが死に、その死を人間は恐れ、いかにしても克服出来ない。それで宗教を作り出し神を創造するのだ。」と宗教を批判しますから普通の人はどうしても死ぬことの納得できる理由を見つけることができないのだと思います。

しかし今の私は死を納得しています。仏教を学んできてひとつの結論に至りました。

死は救いの法門のひとつである、と思うようになりました。どのような法門かというと「死にたくないと命に執着する心が迷いの霊であってそれが救われるため」です。

前に迷いの霊とは基本的に自分と他を分けて自我に執着する心と言いました。自我に執着する心の中でも一番執着するのが自分の命ではないでしょうか。

どんなに大切にしている物でも「これは命の次に大切」と言います。その他にも「命あってのモノダネ」「命からがら」「命だけは」と言ったりするように他の何よりも執着するものです。

つまり神はあの世にあって非常に迷いの強い霊をこの世では死にたくないという在り方に置いて(迷いの霊はどれもその肉体を自分だと思う)、死んでいく時にその霊を救うのだと思います。この考えは先程の「自分の死」の恐怖を理屈では納得できないことの説明になるのではないでしょうか。

病気で非常に苦しんで死んだ人も息を引き取った時はとても安らかな表情であった、という話はよく聞きます。 

また多くの人の最後を看取った医師の中に「臨終の少し前にふと何かを見たような表情になって安らかに息を引き取る人が多い」と言っている人がいます。そこにはおそらく神の大いなる導きがあるのでしょう。

法門無量と言って日常の全てがたましいを浄化する法門だと言いましたが、死はその最後の法門だと思います。地上に生きるものは程度の差はあれみな命と身体に執着心を持っています。だからどんな生き物も必ず死にます。神の巧みな大切な方便です。

ただ、普段命に執着するのは正しい行為でしょうね。この世に生きて迷いの霊が救われ、たましいが豊かになるのですから命は大切です。しかし死という現象自体は決して否定的なことではないし、無に帰すことでもないということです。

従って今の私には死んで無になるという恐怖はありません。その時が来たら食を断って(そのような時は空腹で苦しいということもないでしょうから)あの世に旅立ちたいと思っています。ただひどい苦痛が続く場合、それはいやなので抑えてもらって延命治療は一切やらないで欲しいというのが私の願いです。