大乗仏教とキリスト教は「救い」を言います。ただその内容は異なるようです。
私の理解ではキリスト教の救いは、人間はアダムとイブに起因する「罪と死」の奴隷になっているのでそれから開放されることのようです。
仏教の救いはそれだけではありません。罪と死から解放されることも一応救いと言えるでしょうが、開放されたことによりその後多くの迷いの霊が救われる、という救いです。神の救いの業が成就しやすくなるという意味です。
神が世界を創造したのは様々な迷いの霊を救うためです。仏教は空無を単なる無とは考えません。空無は潜在的に無数の迷いの霊と精霊を含んています。私は前にこれを真空と物質と反物質に例えて説明しました。
迷いの霊とは真理ではない霊で、自分と他をわけて自我に執着するエゴの心、悪質なものでは暴力、憎しみ、差別などの他を排斥する心です。誰もがそのような迷いの霊を背負わされています。その迷いの霊を救うためにこの世に生まれてくるのです。
キリストの「多くの良い実を結ぶ」がこれに当たると私は思う。罪と死から解放されないと多くの良い実を結べません。
なお、知恵の木の実を食べると死ぬことになる、の死は生物学的な死のことではないと思う。生物学的な死を絶望的なことと考えるようになる、あるいは本当の生き方ができなくなる、生きていても死んでいるのと一緒、というような意味だと私は考えます。
仏教で見性している人は「父母未生以前の面目」と表現するように本当の自分はこの世に生まれてくる前からあった存在、死んでも無くならない存在という境地を体得しています。多分アダムとイブが罪を犯す前は誰もがそのような境地にいたのだと思います。
「神の目的」「人生の目的」についてはこのブログの第一話から第四三話までで説明しました。どうぞ読んでみてください。