仏教もキリスト教も救済のことを言っています。初期仏教では救済を言いません。神=永遠のブツダ の啓示の核心である大乗仏教において盛んに救済のことが言われています。
今の私の教学的知見ではキリスト教が示している救済観は不充分なものに思われます。アダムとイブが罪を犯して以来人間は罪と死の奴隷になっている。その奴隷状態から解放されることを救済としているのですよね。キリストを信じることにより罪を許されまた永遠の命を得ると。
私の教学ではこれはまだ本当の救済の説明にはなっていません。本当の救済とは罪や死から解放されることによって本来の正しい生き方ができるようになり、人生の時々に潜在意識の中にある様々な先天的無明が救われることです。キリストが言っている「多くの良い実をむすぶ」がこれに当たると思う。
無明とは迷いの霊、真理ではない霊のことであり、基本的には自分と他をわけて自我に執着する霊で悪質なものは暴力や差別や憎しみなどの他を排斥する霊です。
そのような心が潜在的に誰にもあるのは否定できないと思います。西洋人は無を単純に何も無いことと考えるから教学的に行き詰まるのではないでしょうか。
仏教は空無の中には無明は無いが無明が尽きることも無いと言っています。わかりやすく例えると0の中には+5と−5が潜在的にある、あるいは+5と−2と−3があるという考え方です。
私は過去「人生の目的」を説明した中で「無明と光明、迷いの霊と精霊」を物質と反物質にたとえて説明しました。救済のことや本当の自由、本当の知性なども色々書きましたのでどうぞ読んでみてください。第1話から第43話までがその話です。
https://kosame21.hatenablog.com/entry/2021/09/07/124900