kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

法空の境地

「物質が実在しない」という境地、と聞くと何か難しいことのように思うでしょうが、実は誰もが普段経験しています。

ある景色、たとえば富士山に見とれている時その心は「美」という心を通して「みにくい」という心が瞬間瞬間に浄化され、そのためにプラスとマイナスが相殺されて丁度ゼロのような何にもない心、しかし虚無的というニヒルな心ではなく、充実して生き生きした大きな安らぎの心になっています。

よく「無心になって」ということばを「一心不乱になって」と同じ意味に使いますよね。一心が無心なのです。こんな感じです。

富士山を見ることによりそれと同時に富士山の向こうにある空っぽの空間を茫然と見ているようなボーッとなった大きな無の心、一心であり無心であり充実した安らぎの涅槃の心、これを大乗仏教では空といいます。

茫然として見とれるというのが「空を知る。空じた。」ということで「真理を知る。悟った。」ということです。空じたときにはもう悟りが完成し、迷いの霊が光の世界、彼岸に渡っています。

では別の例で説明してみましょう。動物の中には見ただけで面白いとかその仕草がユーモラスなものがかなりいますよね。パンダとかスズメとか。

だいぶ前なのですがテレビにえり巻きトカゲという動物が出てきました。あの表情を見てそのあと走り出した様子を見た時には誰もがどっと笑い転げたのではないでしょうか。そのようなどっと笑った時のことを想い出してみてください。

「おもしろい!」と思ったと同時に数秒間笑い続けます。「わっはっはー、わっはっはー」と笑っている間は頭の中が全く空っぽになっていますよね。何も考えていないし、何がおかしかったのかも忘れて、ただ「あはは」という真言をとなえて心を空じています。

この時にはくよくよする心や他を侮蔑するいわば薄笑いを浮かべるような心など多くの無明が救われているのだと思います。また少したましいが豊かになりました。

 

 

この空じている時の心こそが人間が求めている本当の「自由」なのだと私は考えます。

現代世界では自由ということばが盛んに強調されています。表現の自由、宗教の自由、職業選択の自由自由貿易などなど。

しかしこれらの自由は他から制限されない、束縛されないという自由であってまだ本当の自由には達していません。

本当の自由とは他から束縛されないということではなく、自分の心の中に有って自分を束縛している迷いの心、執着の心から解放され自由になることです。

どうですか皆さん! 自然の美や笑いによって心を空じている時は「大いなる自由」を味わっているのではないでしょうか。

ここでまた新しい言い方が加わります。「迷いから悟り、無知から真理」は「有(存在)から空、束縛から自由」とも言えます。

自然は基本的には人間を束縛するものではなく、解放してくれるものです。その厳しさが一旦は束縛するようでも結局はさまざまな迷いの心を開放してくれます。

これを逆に考えて、自然は人間を束縛するので自然を征服しよう、力で変えよう、という自然支配の思想が「ひょっとしたら人間滅びるかも、地球も滅びるかも」という少し前まではとても考えられなかった危機を招いてしまったと言えると思います。