kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

回向 5 千の風になって2

メアリー・フライの詩を始めて見た時は本当にびっくりしました。キリスト教の伝統の中で生きてきた西洋人がこのような宗教観を持つとは思いもよらなかったからです。

学校に行かず、おそらく教会に行くこともなかったでしょうから、却ってそれが良かったのかもしれない。それでメアリーは正しい信念に至ったのかもしれない。私から見てですが。

結論的なことを他人から正しいものとして教えられなければ、自分の経験と本で示されていることをあれこれ検討し、自分自身で判断したり推測するクセが付きますよね。

ただし往相回向の方は本を読まずとも自分の経験だけで浄土往生に思い至る人もいると思います。私が全くの無神論者だった頃の知人でそのような宗教観を持っていた人間がいました。

彼は低学歴でしたが物事を鋭く捉える側面があり、また霊とか神の存在を当然と考えており、自然現象の背後にそういうものを感じているようでした。自然現象をよく見ることが大切だと思っているようで、実際川のせせらぎの光や音に魅入ったり、大きな花をじっと見たり、地面に寝転んで白い大きな雲を一心に見ていることがありました。

多分彼はそういう所にも人生の大切な意味があり、その経験が無になることはないと考えていたのだと思う。

メアリー・フライも自然の良さの中に霊的なものを感じ、死後はそういう世界に行くと信じるようになり、読んだ本の中にもそれを裏付けるような内容のものがあったのかもしれません。

ただ還相回向の方はどうして知ることができたのか想像がつきません。私と同じように仏教の本を通してそう信じるようになったのか。1900年代なので仏教の本もかなり図書館には置かれていたでしようから。

あるいはアメリカ先住民の言い伝えからヒントを受けた可能性もあると思います。「愛しいと思う」とは違うけれどよみがえりに通ずるような言葉もあります。「水のきらめきや流れの音やそこに映る影はただの水というものではない、私の父の父の声や姿なのだ」という意味のことを言っていました。

「私は愛しきものひとつひとつの中にいます」とはっきり言っているように、自然現象がどれも神の恵みであることを自覚し、それを愛しいと思ったり称賛している心は永遠なものとなり、やがてよみがえるということを間違いなく信じていたのだと思われます。(続く