kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

十字架に関する私見

ユダヤ人が神に選ばれた特別な民でその延長としてイエスユダヤ人として生まれてきたのではない。ユダヤ人が悪魔崇拝者のモーセに選ばれてアダムとイブの罪の一つの象徴であるモーセの律法を信奉する民だったからそれを否定すべくイエスユダヤ人として生まれてきたのです。

厳格な律法主義者であったパウロを改心させたのも完全にそれが否定されるべきものという教えを悟らせ、弘めるためのイエスの計画だったはず。パウロ聖霊が降ったのも使徒たちと同じ時だと思われる。聖霊はその時が来るまで2年ぐらいだったかパウロをじっと見守っていたのでしょう。

イエス・キリストの神と旧約の神は違うとしたマルキオンも大体私と同じ見方ををしていたのだと思う。パウロの書簡を重視したことでそれがわかります。パウロの書簡には律法に否定的な言葉があちこちに見られます。従ってモーセや律法に対して肯定的な表現を見つけて改ざんされていると判断し、訂正したのでしょう。パウロの律法否定は確信的です。コロサイ書では「神は律法を破棄し、十字架に釘付けにして取り除いた」とまで言っています。

キリストの出現の一つの意味はモーセの律法を否定することだから、上記の言葉にはそれがよく表現されている。律法を否定するためには命を捨てる。神に命をささげることが最も尊いことであることを示したのだと思う。

仏教、とりわけ大乗仏教を学んで来た私から見るとキリストの十字架は天の父への最も尊い捧げ物は自分の命であることを示したとしか思えない。そう解釈すれば「私について来たい者は、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」というキリストの言葉もうなずけます。

付け加えて十字架の意味にはもう一つがあると私は思う。あの当時弱肉強食という現象の弱肉に対して否定的絶望的な想いを多くの人が抱いていたのではないか。あの当時多神教の正しい意味がわからなくなっていたように、弱肉強食の意味もわからなくなっていたと思われる。仏教はしきりに命を捧げることが最も尊いと示している。

イエス・キリストの最後ゲツセマネの祈りから息を引き取るまでは、律法否定と共に演技というか弱肉強食のことを暗に秘めての言葉と行動ではないか。そう考えるとわかるところがある。

イエス・キリストは十字架は最初から覚悟していたし、あれだけの奇跡を行った人です。予定の十字架なのに息を引き取る寸前に「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだのは演技と考えなければ不自然です。人間に限らず寿命の途中で命を奪われるときはこのような想いになる、しかし神は見捨てない、弱肉者は神に命を捧げた者、などを示すためにイエスはあのように演じたのではないでしょうか。

またゲツセマネでの祈りの時も「悲しみもだえ始めた」とか「汗が血の滴るように地面に落ちた」と書かれていますが、これも弱肉強食を重ね合わせて示していると考えるとぴったりします。草原で仲間と楽しく草をはんでいると、遠くの方で肉食獣がこっちの様子をうかがい始めたので、「あっ、あいつら俺たちを狙い始めたな。また誰か犠牲になるんだろうな。どうかこの盃を取り除けてほしい。」と悲しみもだえ、冷や汗を流すのではないでしょうか。

演技で滴るほど汗を流すのは変だと思う人もいるでしょうが、私はこの時イエスは実際は最後の奇跡が全部実現するよう必死に祈っていたのではないかと推測しました。

だいぶ前に読んだキリスト教のある文書には(福音書だった気がする)「主は大きな奇跡を示されたあとはひどくお疲れのようであった」とあったと記憶しています。イエス・キリストほどの人でも大きな奇跡をするためには相当なエネルギーを必要としたのではないでしょうか。