kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

マルキオンに立ち戻ってはどうか

今までかなりキリスト教を批判してきました。真剣な気持ちでやっています。なぜかというとキリスト教が変わらないと世界は良くならないと思うからです。

キリスト教は旧約の神も父としての神としていますよね。だから旧約も聖書と言うのでしょう。そうすると天地創造の時の神の言葉は神学上重要になる。特に人間にとって二つのこと、「神にかたどって人を創造した」とその人間に対して「地に満ちて地を従わせよ、、、生き物すべてを支配せよ」と言ったことは特別なことになります。

人間だけが神に似た存在で他の生き物とは全く違う、また全自然を与えるから好きなように支配し利用しなさいと神が言うのだからこれも人間とそれ以外の存在は本質的に異なるという価値観になってしまいますよね。

そしてこの数百年西洋は自然支配を神の意向に沿うこととして推し進めてきました。少し前の1950年代になってもエベレストを征服したとニュースになっていました。

西洋の自然支配の傾向はキリスト教が成立してからかなりの期間は出てこなかった。私は西洋の中世のことはよく知りませんが比較的平和で良い時代だったのではないかと想像します。十字軍を派遣した当たりからおかしくなったのではないか。

マルキオンを異端として、モーセの神も天地の主宰者である父としての神としたのになぜ自然支配の面がかなりの期間出てこなかったのか不思議ですが、やはりイエス・キリストの力が働いたのでしょうか。

その後少しづつ自然支配の傾向が現れ、フランシス・ベーコンデカルトなどの思想を基に自然支配が加速した。そして二十世紀の後半になって色々な環境問題が発生し、この自然支配、自然征服の思想をまずいと思うようになったのですね。

「地を従わせよ、、、支配せよ」この言葉はまずい、都合が悪いという識者の発言があちこちで見られ、やがて、神は「治めよ」と言ったのだという発言を直接二人のクリスチャンから聞きました。異なる宗派の人です。図書館で手にした本にも「治めよ」とか「管理せよ」が本来の意味だという風に書いてありました。

この点キリスト教はもっと正直に公式に表明すべきなのではないのか。「我々は【地を従わせよ】を征服せよ支配せよの意味に解して行動してきたが、どうも間違ったことをして来たようだ。これからは【治めよ、管理せよ】の意味に解して色々考えて行きたい」とでも言うのが本当ではないでしょうか。

クリスチャンで「『最近キリスト教の自然支配の思想がこれだけの環境問題を引き起こして来た』などという乱暴な意見を言う人がかなりいるが」と反論している人がいましたがおかしいです。乱暴な意見ではなく、明らかにキリスト教に責任があります。

しかし仏教徒の私から見ると「地を治めよ」でも奇異な感じを持ちます。地上は神の甚だ深く霊妙な言葉に満ちた世界ですから、それを治めよなどという不敬な心を人間に勧めるわけがありません。仏教はそれを信奉してよく味わい賛嘆することが大切だよと教えています。

キリスト教は自然崇拝を汎神論とか多神教といってすぐ批判するがおかしいのではないか。

イエス・キリストを神の言葉の受肉として信奉しているのですよね。「すべてのものは言葉によってなった」のだから目の前にあるものは全て神の言葉ではないか。山や川、鳥やたんぽぽの花、人間の言葉とは違う微妙で神秘的な神の言葉そのものでしょう。

「神の言葉を従わせよ」とか「治めよ」と神が言うはずがないのでは? 従ってこれはサタンの言葉です。前に言ったようにアダムとイブが罪を犯した時に天使ルシファーが言ったものと考えれば色々と辻褄が合います。

キリスト教は今困っているのでしょう、「地を従わせよ」の言葉で。ニ世紀のマルキオンに立ち返って新しい教学を考えてはどうでしょうか。

ついでに言うとその前の言葉「神に似せて人を作った」も天使ルシファーのものだと思われる。アダムとイブが罪を犯した時にルシファーが人間を作り変えたのです。

これと関係しているのか、文人ゲーテが「プロメテウス讃歌」という詩で「プロメテウスが自分に似せて人を作った」と言っています。彼は自然と恋愛を賛美した人ですからなぜこのようなことを言ったのか私にはよくわかりません。グノーシス派と同じように世界を作ったのは至高神ではなくプロメテウスと考えたのでしょうか。

旧約の冒頭の「光あれ」や「夕べがあり、朝があった」などの話は私には判断できませんが人間に関する言葉は天使ルシファーのものだと私は確信しています。

大体現代の宗教観は全くの間違いだと私は考えます。先史時代も含めて人間の宗教は時代と共に少しづつ変化して来たとしていますよね。

太古の人間は自然は命を養ってくれるものだし、畏怖すべき存在だということで自然崇拝であった。そして怖れる、敬うという気持ちが当然の如く神と捉えることになり、多神教が始まる。それが律法的な一神教になって最後に愛の一神教へと変遷してきた、というような宗教観です。

私の宗教観は本当の一神教は自然崇拝、多神教と矛盾しないというものです。自然は神の言葉、神の精神、精霊だからです。但し多神教の初めの頃は自然が神の精神であることを知っていたが、時代が過ぎるに連れ本当のことがわからなくなってしまった。アダムとイブの罪のため真理を知る能力を失ったと思われます。西洋ではソクラテスの頃はもう本当の多神教の意味をほとんどが知らなかったでしょうね。