kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

神と大乗

最近の仏教関係者がよく「仏教にはキリスト教イスラム教のような神、天地の創造者という観念は無い」と言っていますがこのことに私は大変な違和感を持っています。

法華経華厳経の中心のブッダはどうみてもこの天地の主宰者としか見えないし、浄土系の阿弥陀仏も無量光仏、無量寿仏でやはり天地の主です。他の大乗仏典のブッダも天地の主宰者に通じている人間として書かれています。

仏教が初めて日本に来た時も誰もが外国の神と認識しています。それで受け入れるか受け入れないかで争いがあったのですよね。日本には元々日本の神が存在するのだから外国の神を受け入れる必要はない、と反対した人たちがいました。しかし仏典の内容が余りにも緻密で意味深い文章に満ちていたので受け入れたのだと思われます。但し外国の神、インドの宗教というのは間違いです。仏教は普遍的な宗教、世界の宗教です。

十六世紀にキリスト教徒が日本に来た時もキリスト教の神デウスを日本の僧侶が大日のことだと言っています。カトリックは教理に似たところもあるので、仏教の別の宗派ではないかと考えた僧侶もいたようです。

このように以前は大乗仏典の中心のブッダは天地の主宰者と捉えていたのになぜそう考えないようになってしまったたのでしょうか?

私の推測では開祖のゴータマブッダが神のことを何も言っていないからだと思う。しかも西洋の仏教研究者が大乗仏典は原初の仏教の数百年後に書かれたものだということを明らかにしたので、ゴータマ以来の伝統仏教の方が正統だと捉えるようになったためと思われます。日本でも富永仲基という学者はだいぶ前に大乗仏典はゴータマブッダの教えではないことを示していましたが。

西洋人の中にも「仏教は不思議だ。大乗仏教になって急に一神教的な人格神になった。」とか「キリスト教使徒トマスがインドまで行っているからその影響で一神教的なものになったのではないか」という人がいます。

使徒トマスもそれなりに相当な説法が出来た人なのでしょうが、大乗仏典のような説法は出来ないでしょうし、ましてトマスの話をヒントにして誰かが大乗仏教を作成したとはとても考えられません。それぐらい大乗仏典は驚愕的なものです。

私の見方は「仏教全体が神=永遠のブツダの啓示である」です。啓示とは神がある人間を通して自分の思いを示すことですよね。キリスト教イスラム教もそうです。そして仏教もそうです。

インドに置ける最初の啓示がゴータマブッダです。ただしゴータマ自身は自分の悟った真理が永遠のブツダの意志によるものとは気がついていません。弟子の一人に神の存在を問われ、「存在するか存在しないか私は知らない。だからそのことについては何も言いたくない。」と答えています。

これは神、永遠のブツダが取り急ぎ人間に忠告しようとしたからだと思われます。応急処置、救急車のようなものです。

アダムとイブが罪を犯して楽園を追われたのですよね。つまりこの地上が苦の世界になったということです。苦集滅道というようにゴータマブッダの最初の認識は「この世は苦である」です。そして苦を克服して滅する道を教えました。

取り急ぎの応急処置ですから完全な教えではありません。完全な教えは数百年後の一連の大乗仏典で示されました。主要な大乗仏典の作者はみな開祖のゴータマブッダも神の啓示者の一人であることを知っています。しかしゴータマの教えは完全ではないので大乗の完全な教えを学びなさいとしきりに説得しているのです。

このように考えることによって開祖のゴータマブッダ大乗仏教の関係が合理的に説明できるのです。教えを説いた人間としては違う人間だが神、永遠のブツダの意思を実現した点は同じです。従ってインドに置ける神の啓示にはピークがあり、一番のピークは般若経法華経華厳経が作成された頃だと私は考えます。紀元一世紀から四世紀頃でしょうか。

最初に応急処置としてゴータマを通して導き、ひと呼吸おいて大乗を教えたという神、永遠のブツダのやりかたは私にとってはぴったりでした。このブログの初めの方でも言いましたが大乗仏教の「空」を初期仏教の「無常無我」的に間違って解釈し、それでも大変な驚きで仏教に俄然興味を持ったので。それから大乗仏教を勉強していくうちにもっとすごい深いことを言っている、となって行ったのですからぴったりです。

大乗経典においても釈尊とかシャリフツなどの名前が出てくるのは、あの時の話には続きがあるということでしょう。釈尊という名前も固有名詞ではなく、永遠のブツダがゴータマを導いて覚者にした。それを教徒たちが釈尊と呼んだので大乗経典でも釈尊という言い方をしたのだと思われます。