kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

神のことば、真言、呪文

ヨハネによる福音書に「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」というキリストのことばがあります。

この場合の「わたし」はイエス(あの時代パレスチナで30年位生きた)のことだけを言っているのではないと私は思う。

エスは神のことばの受肉なのですよね。なのでこの「わたし」はアブラハムが生まれる前からあった神のことばのことだと私には思われる。

キリスト教徒はイエス・キリストを知らない人間はそれだけでイエスを知る人間より劣っていると考える人が多いようですが、何を根拠にしているのでしょうか? ひよつとしたらこの「わたしは道であり、真理であり、、、、」がひとつの根拠なのでしょうか?

だとしたら勘違いだと私は思う。神のことばはいつの時代も地上に生きる者たちを養い育てたましいを豊かに導いてきたと言えます。

大乗経典は自然現象が神=永遠のブツダの教えの経典だとしきりに言っています。「この経典を受持し、読誦し、供養し、賛嘆するものは多くの功徳を得る」のような同じ表現が多くの経典に書かれています。人間の言葉で書かれた経典のことだけでなく、山川草木花鳥風月などの自然現象はどれも神の教えの言葉、絵の文字、色の文字であると暗に秘めて言っているのです。

また多くの経典に「この経典は最高の経典である」という様な同じ表現が見られますが決して矛盾していません。この経典とは自然現象のことだからです。

大乗は自然現象が神の道であり、真理の教えであり、地上に生きる者のたましいを浄化してより良いものにしていくものだと示しています。あとそれを知る生命の活動です。

キリスト教も「神は二つの書物を書いた。ひとつは聖書であり、もうひとつは自然という書物である。」と理解したようですが、自然はいわゆる科学的な理性の対象であって聖書ほど重要なものではないとしているようですね。仏教はそれと反対で、自然こそが神の真の教えなのだとしきりに言っています。人間の言葉を使って。

従って自然とそれを知覚する生命のはたらきを最も価値あるものと考える仏教徒の私からすると「自然を征服せよ、自然を支配せよ」と神が言ったというのはとても信じられません。

ただし西洋人の中にも自然をただ利用したり数学的対象として見る人だけではなく、違った見方をする人がいるようです。

エンデという人が次のようなことを言っています。「どの樹木も、どのとりも、絶え間なく何かを語っている。ただ異なる形式の言語なんです。それは、形の言語であり、色彩の言語であり、音の言語なんですね。みんな言語です。みんな言語。この宇宙全体は、ただ言語から成っている。 『ものがたりの余白』」。

人間の知性に関してのキリスト教の神学はこう言っては何ですが大乗の偉大な教師たちの教えに比べると未熟な感じがします。大乗は四智ないし五智でほぼ完全に説明していると思われる。

とりわけ妙観察智という人間の本当の知性をよく知っていると思う。中国の禅語などにそれがよく現れている。

このことに関してパウロのある言葉に気がついたことがあります。「神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」という箇所です。

このような暗示、啓示をパウロは受けたのだと思う。そしてこのことばの具体的な意味内容を知るまでには至らなかったのだと思われます。何故かというとパウロが具体的な意味を知っていたならば必ず教えるはずだし、聞いた人も必ず後継者に伝えていくはずだからです。

パウロはあとで宣教しながら考えようと思ったのではないでしょうか。それが迫害や教会維持や自分の仕事などで忙しく、考える時間がなくなってしまった。あるいは終末の時が迫っているという意識から余り重要とは考えなかったとか。

パウロがこの意味を追求して理解し、後継に伝えていたらキリスト教の神学は全くの別なものになっていたと思います。

仏教の妙観察智、「神の力と神性は被造物に現れている」について私は二つの例をあげて説明しましたので是非読んでみてください。下の記事から10回分がその説明です。

https://kosame21.hatenablog.com/entry/2021/11/05/195817