kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

わたしの家はすべての国の人の祈りの家

前回、善因善果やルカ福音書の話で一つの霊魂はさまざまな種類の多くの霊から成り立っていて、最後の裁きの「救いか、地獄か」は名前で示されるような個人個人のことではなく、人生のその時々の霊が救われるかどうかの意味だと言いました。

この一つの霊魂はさまざまな霊から成り立っているという見解は私の仏教的見解ですが、イエス・キリストもこのことを言っていると私は思います。マルコによる福音書に次のような話があります。

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それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の中に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売るものの腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」

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またヨハネによる福音書には「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」というイエスのことばがあります。

従ってここでイエスは二つの意味を重ね合わせて言っていることになります。一つは建築物としてのエルサレムにあった神殿で、その神聖であるべき神殿を金儲けなどをすることで汚していることを叱った。

もう一つは肉体に宿る霊魂が霊的神殿であり、神が降臨し、聖霊に満たされ、すべての国の人の祈りの家なのだ、と示しているのです。その神聖であるべき霊的神殿を多くの人が強欲の巣にしてしまっている、と非難しています。パウロの書簡にも「肉体は神殿」と言っているところがありますよね。

「すべての国の人の祈り」が仏教の「衆生の信仰」にあたります。仏教は初期仏教以来、個人の肉体や心は色々な物質や色々な心の集まりであると考えますから気が付きやすいのですが、西洋人は自我意識が強いからでしょうか、誰一人気が付かなかったようです。

しかもキリストのこの言葉は神学上大変重要である、と言えます。