kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

禁断の知恵の木の実とは何か

私はアダムとイブが食べた禁断の知恵の木の実とは「人間の言葉」だと思っています。

言葉とは口から発する音の違いにより世界の様々な事象を表現したり、自分の様々な心の現象を表現し、人間同士の意思伝達手段として使われるものです。

人間以外の動物も声を発しますが、音の種類はわずかだし感動詞みたいなものや危険の合図や居場所を知らせるなどの特別なことの伝達手段ですよね。人間の言葉とは異なります。人間の言葉でも感動詞の「オーッ」「ワハハ」や掛け声の「エイッ」「どっこいしょ」は普通の言葉とは異なります。

人間が言葉を使用する前は相手の表情や仕草などで相手の心を読み取ったりしたのでしょう。あるいはその頃の人間は他心通の能力があったかもしれません。

感動詞と違って人間の言葉は親や周りの人から習って覚えていきますよね。そうするとある何かの物事の本質を知る前に「それはそういうものだ」となんとなく決めつけてしまうのではないでしょうか。特に幼児期は新しい物事と新しい言葉の連続ですから、色々覚えようとして本来使うべき脳の神経回路の一部を使わなくなってしまうのではないか、そして物事の本質、真理を知る能力を失ってしまうのではないかというのが私の想像するところです。

その一つの証拠に昔からの言い伝えとして現代でも残っているものに、世界万象の真理、神の真理が見受けられます。

「たましいは海の彼方からやつて来る」を今の人は、昔からそう言われている、と説明するだけでしょう。太古の人たちは自然現象には神の心が表れているということを知っていて、海や水や波、天と水平線などを探求し「たましいは海の彼方からやって来る」と神の心を理解したのです。

言葉の使用前は誰もがそれを知る力があったのだと思う。言葉でこれを説明するようになると、教える者がその理由をていねいに説明しないと、本当の意味が段々とわからなくなってしまうでしょうね。昔の人はそう考えていた、そう言っていた、になってしまいます。

ほかにも神の心を正しく理解していた言い伝えはかなりあります。カニを安産の守護神として祀った話、子供を叱るとき「お前はね、海(又は川)から拾って来たんだ」と言う、「死んだらお星さまになるのよ」。これらは皆神の真実です。今の人でこれを神の真実と思う人はほとんどいないと思われます。

もし人間が言葉という表現手段をもたなかつたら文明を積み上げて進展させることは出来なかったでしょう。自然界にあるものを少し加工して道具として使う程度だったと思う。言葉と文明の親密さからもアダムとイブの罪との関連が伺えます。

だから仏教では不立文字、以心伝心が強調されます。禅問答のやり取りは私には良く理解できませんが、普段言葉で当たり前のこととして捉え表現していることが真実ではないと指摘しているのではないかと思う。

キリスト教ではアダムとイブの罪は遺伝することになっていますよね。私は生まれてきた時はこの世で罪を犯してしまうという罪はまだ背負ってはいないと考えます。

 

666 ヨハネの黙示録

何といってもキリスト教世界がこの数百年世界の先頭に立って進んできたので、キリスト教のことも勉強しようと思い勉強をしてきたのですが、途中からはマルキオンと同じようにイエス・キリストの示す神と旧約の神は違うと思うようになりました。

但し旧約の神とはモーセとその後継者の神です。旧約には多くの預言者が出てきますので全部がモーセの神と同じかは私には判断できません。「私は焼き尽くす捧げものなど望んでいない」とモーセの神と異なる預言者もいるようなので。

前にも言いましたようにモーセの律法は「この教えを守れば自分たちが滅びることは決してない、世界の支配者になれる」であり、律法を与えたのは創造神ではなく堕天使ルシファーです。それが私の理解です。

新約聖書にもそれを暗示する言葉がかなりあります。イエス・キリストが律法に熱心なファリサイ派や律法学者を何回も非難していること、ヨハネ書の「悪魔である父から出た者」、パウロ書簡などです。

ある時聖書のある文章に注目しました。ヨハネの黙示録13の「666」という数字です。「獣の名、あるいはその名の数字、、、数字は人間を指している」とあります。あの世界では一つのアルファベットは一つの数字を意味し、あるクリスチャンから聞いたのですが、皇帝ネロを数にすると666になるそうです。定説はないようですね。

私はだいぶ前からモーセの神はサタンだと考えていましたから、この数字がモーセならぴったりだと思いました。文字と数字の関係は私にはよくわからないのではっきりしませんが、どうも合わないようです。しばらくして写本の中には616のものもあると知りました。どちらが正しいかはわからないそうです。そして616も合わないようでした。

それからだいぶ経ってから、モーセの律法の数は613項目あるということを知りました。それでこれが黙字録の数字に関係しているのではないかと思い至ったのです。

666と616のどちらもが正しいことはないでしょうから、聖書の一言一句が全て正しいとは言えません。誤写だけでなく意図的な書換えはあって当然だと思います。それでモーセ悪魔崇拝者と考える私はこの件に関して二つの仮説を考えました。強い自信があるわけではありませんが。

ひとつは最初の黙示録には613と書かれていたものをまず616に書き換え次に666に書き換えたという仮説。もうひとつは最初が616だったとする考え。その頃は律法の条項が616だったので、これはまずいと思い、3項を他の項目に組み込みさらに616を666に変えたという仮説です。666は個人のものとしては特異過ぎる感じがします。12を特別な数としている面もありますが。

前にも書きましたが私は反ユダヤではありません。反モーセであり、むしろユダヤ人に対しては同情の気持ちです。あの時代弱者のユダヤ人にとってモーセの誘惑はさぞかし魅力的だったでしょう。しかしそのモーセのおかげでユダヤ人は永い間苦労の連続だったのではないか。今にいたるまで安らぎのときがあったでしょうか。

移り住んだ土地でも律法を頑固に守り通すのでその土地の人に嫌われるのは当然だと思います。「イエス・キリストを十字架につけたから」という理由だけではないでしょう。マルキオンのように考えた人がいつの時代にもいたと思われます。

今世界において一番必要とされることは、ユダヤ人がモーセから解放されることと、キリスト教モーセの神は父としての神ではなく堕天使ルシファーだと気づくことです。「地を従わせよ」「神にかたどって人を作った」はルシファーが言った言葉であると知ることです。またイスラム教にもモーセを創造神の直接の預言者ではなく堕天使からの預言であると認識してほしいと思っています。

大きなことを言うようですが、「生きる意味」と共に宗教の色々な面を考えてきて、かなり正しい結論に至ったのではないか、また今の世界で一番必要とされている「生命観、自然観、宗教観」ではないかとの思いからこのブログを書いています。

どうぞ最初から読んで見てください。生意気ですが、十分世界に発表するだけの価値があると思っています。

https://kosame21.hatenablog.com/entry/2021/09/07/124900

 

ユダヤ人はなぜキリストを憎んだのか

イエス・キリストはなぜ当時の多くのユダヤ人から憎まれたのか。律法学者やファリサイ派の人々は何回も批判されていたから憎んで当然ですが、一般の民衆もかなり多くが彼を憎んだようです。

様々な奇跡を行ない多くの民衆を引きつけ、エルサレムに入る時には大群衆がイエス・キリストを祝福したとあります。彼を待望のメシアと認めて歓迎したのでしょうか。しかしその後かなりの人たちがキリストから離れてしまったようです。なぜでしょうか。

いくつか原因があるのでしょうが、一番の原因はユダヤ人の上層階級の人たちだけでなく一般の民衆に対してもイエスは「モーセの律法は神からのものではない、悪魔からのものだ」と示したからではないかと私は思いました。

決して単なる憶測ではなく福音書にも書いてあります。ヨハネによる福音書8です。

「あなたたちは、悪魔である父から出たものであって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。、、、、あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」

当時のユダヤ人は誰もが自分たちを神から選ばれた特別な民と認識していたのですよね。それに対してキリストが「あなた方の父は神ではなく悪魔である」と言ったので多くのユダヤ人がかれを憎んだのでしょう。

とりわけ律法学者やファリサイ人は律法に熱心で自分たちは神に一番近い存在であると誇っていたでしょうね。それをあなた方が神から一番遠い存在だと言われたので、強い殺意を抱いたのだと思われます。ソクラテスに皮肉っぽくやり込められただけでも憎んで死刑にしようと思う人がいたぐらいですから、イエス・キリストの場合はその比ではないと言えるでしょう。

今の新約聖書にもモーセや律法を比較的肯定的に表現しているところがあるようですが、私もマルキオンと同じように改ざんされたのではないかと疑っています。あの時代印刷機械など無く書き写すわけですから、悪意を持って書き換えることはあり得るのではないでしょうか。クリスチャンになりすました人間もいたでしょうし。大乗仏典にも改竄されたと思われるところがあります。

よく正典の一言一句もおろそかにしてはならないと言われますがその通りだと思います。何気ない表現にも深い意味が隠されていることがかなりあるからですよね。

一言一句に霊感が秘められているということも言われますが、私はこの考え方には反対です。なぜかというと悪意の人間の思うつぼだからです。自分の価値観を否定していることを憎み何とか書き換えてやろうと思う人はいただろうと想像します。なので正典の言葉全部を真理の言葉とするのは間違いだと思う。法華経という仏教の大経典にも改ざんされた形跡があります。

 

 

マルキオンに立ち戻ってはどうか

今までかなりキリスト教を批判してきました。真剣な気持ちでやっています。なぜかというとキリスト教が変わらないと世界は良くならないと思うからです。

キリスト教は旧約の神も父としての神としていますよね。だから旧約も聖書と言うのでしょう。そうすると天地創造の時の神の言葉は神学上重要になる。特に人間にとって二つのこと、「神にかたどって人を創造した」とその人間に対して「地に満ちて地を従わせよ、、、生き物すべてを支配せよ」と言ったことは特別なことになります。

人間だけが神に似た存在で他の生き物とは全く違う、また全自然を与えるから好きなように支配し利用しなさいと神が言うのだからこれも人間とそれ以外の存在は本質的に異なるという価値観になってしまいますよね。

そしてこの数百年西洋は自然支配を神の意向に沿うこととして推し進めてきました。少し前の1950年代になってもエベレストを征服したとニュースになっていました。

西洋の自然支配の傾向はキリスト教が成立してからかなりの期間は出てこなかった。私は西洋の中世のことはよく知りませんが比較的平和で良い時代だったのではないかと想像します。十字軍を派遣した当たりからおかしくなったのではないか。

マルキオンを異端として、モーセの神も天地の主宰者である父としての神としたのになぜ自然支配の面がかなりの期間出てこなかったのか不思議ですが、やはりイエス・キリストの力が働いたのでしょうか。

その後少しづつ自然支配の傾向が現れ、フランシス・ベーコンデカルトなどの思想を基に自然支配が加速した。そして二十世紀の後半になって色々な環境問題が発生し、この自然支配、自然征服の思想をまずいと思うようになったのですね。

「地を従わせよ、、、支配せよ」この言葉はまずい、都合が悪いという識者の発言があちこちで見られ、やがて、神は「治めよ」と言ったのだという発言を直接二人のクリスチャンから聞きました。異なる宗派の人です。図書館で手にした本にも「治めよ」とか「管理せよ」が本来の意味だという風に書いてありました。

この点キリスト教はもっと正直に公式に表明すべきなのではないのか。「我々は【地を従わせよ】を征服せよ支配せよの意味に解して行動してきたが、どうも間違ったことをして来たようだ。これからは【治めよ、管理せよ】の意味に解して色々考えて行きたい」とでも言うのが本当ではないでしょうか。

クリスチャンで「『最近キリスト教の自然支配の思想がこれだけの環境問題を引き起こして来た』などという乱暴な意見を言う人がかなりいるが」と反論している人がいましたがおかしいです。乱暴な意見ではなく、明らかにキリスト教に責任があります。

しかし仏教徒の私から見ると「地を治めよ」でも奇異な感じを持ちます。地上は神の甚だ深く霊妙な言葉に満ちた世界ですから、それを治めよなどという不敬な心を人間に勧めるわけがありません。仏教はそれを信奉してよく味わい賛嘆することが大切だよと教えています。

キリスト教は自然崇拝を汎神論とか多神教といってすぐ批判するがおかしいのではないか。

イエス・キリストを神の言葉の受肉として信奉しているのですよね。「すべてのものは言葉によってなった」のだから目の前にあるものは全て神の言葉ではないか。山や川、鳥やたんぽぽの花、人間の言葉とは違う微妙で神秘的な神の言葉そのものでしょう。

「神の言葉を従わせよ」とか「治めよ」と神が言うはずがないのでは? 従ってこれはサタンの言葉です。前に言ったようにアダムとイブが罪を犯した時に天使ルシファーが言ったものと考えれば色々と辻褄が合います。

キリスト教は今困っているのでしょう、「地を従わせよ」の言葉で。ニ世紀のマルキオンに立ち返って新しい教学を考えてはどうでしょうか。

ついでに言うとその前の言葉「神に似せて人を作った」も天使ルシファーのものだと思われる。アダムとイブが罪を犯した時にルシファーが人間を作り変えたのです。

これと関係しているのか、文人ゲーテが「プロメテウス讃歌」という詩で「プロメテウスが自分に似せて人を作った」と言っています。彼は自然と恋愛を賛美した人ですからなぜこのようなことを言ったのか私にはよくわかりません。グノーシス派と同じように世界を作ったのは至高神ではなくプロメテウスと考えたのでしょうか。

旧約の冒頭の「光あれ」や「夕べがあり、朝があった」などの話は私には判断できませんが人間に関する言葉は天使ルシファーのものだと私は確信しています。

大体現代の宗教観は全くの間違いだと私は考えます。先史時代も含めて人間の宗教は時代と共に少しづつ変化して来たとしていますよね。

太古の人間は自然は命を養ってくれるものだし、畏怖すべき存在だということで自然崇拝であった。そして怖れる、敬うという気持ちが当然の如く神と捉えることになり、多神教が始まる。それが律法的な一神教になって最後に愛の一神教へと変遷してきた、というような宗教観です。

私の宗教観は本当の一神教は自然崇拝、多神教と矛盾しないというものです。自然は神の言葉、神の精神、精霊だからです。但し多神教の初めの頃は自然が神の精神であることを知っていたが、時代が過ぎるに連れ本当のことがわからなくなってしまった。アダムとイブの罪のため真理を知る能力を失ったと思われます。西洋ではソクラテスの頃はもう本当の多神教の意味をほとんどが知らなかったでしょうね。

 

十字架に関する私見

ユダヤ人が神に選ばれた特別な民でその延長としてイエスユダヤ人として生まれてきたのではない。ユダヤ人が悪魔崇拝者のモーセに選ばれてアダムとイブの罪の一つの象徴であるモーセの律法を信奉する民だったからそれを否定すべくイエスユダヤ人として生まれてきたのです。

厳格な律法主義者であったパウロを改心させたのも完全にそれが否定されるべきものという教えを悟らせ、弘めるためのイエスの計画だったはず。パウロ聖霊が降ったのも使徒たちと同じ時だと思われる。聖霊はその時が来るまで2年ぐらいだったかパウロをじっと見守っていたのでしょう。

イエス・キリストの神と旧約の神は違うとしたマルキオンも大体私と同じ見方ををしていたのだと思う。パウロの書簡を重視したことでそれがわかります。パウロの書簡には律法に否定的な言葉があちこちに見られます。従ってモーセや律法に対して肯定的な表現を見つけて改ざんされていると判断し、訂正したのでしょう。パウロの律法否定は確信的です。コロサイ書では「神は律法を破棄し、十字架に釘付けにして取り除いた」とまで言っています。

キリストの出現の一つの意味はモーセの律法を否定することだから、上記の言葉にはそれがよく表現されている。律法を否定するためには命を捨てる。神に命をささげることが最も尊いことであることを示したのだと思う。

仏教、とりわけ大乗仏教を学んで来た私から見るとキリストの十字架は天の父への最も尊い捧げ物は自分の命であることを示したとしか思えない。そう解釈すれば「私について来たい者は、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」というキリストの言葉もうなずけます。

付け加えて十字架の意味にはもう一つがあると私は思う。あの当時弱肉強食という現象の弱肉に対して否定的絶望的な想いを多くの人が抱いていたのではないか。あの当時多神教の正しい意味がわからなくなっていたように、弱肉強食の意味もわからなくなっていたと思われる。仏教はしきりに命を捧げることが最も尊いと示している。

イエス・キリストの最後ゲツセマネの祈りから息を引き取るまでは、律法否定と共に演技というか弱肉強食のことを暗に秘めての言葉と行動ではないか。そう考えるとわかるところがある。

イエス・キリストは十字架は最初から覚悟していたし、あれだけの奇跡を行った人です。予定の十字架なのに息を引き取る寸前に「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだのは演技と考えなければ不自然です。人間に限らず寿命の途中で命を奪われるときはこのような想いになる、しかし神は見捨てない、弱肉者は神に命を捧げた者、などを示すためにイエスはあのように演じたのではないでしょうか。

またゲツセマネでの祈りの時も「悲しみもだえ始めた」とか「汗が血の滴るように地面に落ちた」と書かれていますが、これも弱肉強食を重ね合わせて示していると考えるとぴったりします。草原で仲間と楽しく草をはんでいると、遠くの方で肉食獣がこっちの様子をうかがい始めたので、「あっ、あいつら俺たちを狙い始めたな。また誰か犠牲になるんだろうな。どうかこの盃を取り除けてほしい。」と悲しみもだえ、冷や汗を流すのではないでしょうか。

演技で滴るほど汗を流すのは変だと思う人もいるでしょうが、私はこの時イエスは実際は最後の奇跡が全部実現するよう必死に祈っていたのではないかと推測しました。

だいぶ前に読んだキリスト教のある文書には(福音書だった気がする)「主は大きな奇跡を示されたあとはひどくお疲れのようであった」とあったと記憶しています。イエス・キリストほどの人でも大きな奇跡をするためには相当なエネルギーを必要としたのではないでしょうか。

 

モーセの律法は罪が増し加わるため

アダムとイブが禁断の果実を食べた時天使ルシファーが「(さあその知恵の木の実でもって)地に満ちて地を従わせよ。、、生き物をすべて支配せよ。」と言ったのだと思う。従ってこの言葉は創造神のものではなくキリスト教が云うサタンの言葉です。

モーセの神はこの天使ルシファーであり、モーセの律法は「この教えを守れば自分たちが滅びることはない。自然を征服できる、世界の支配者になれる」です。

このことは現代のあるユダヤ人が「我々が2千年近く祖国を持たず、世界に分散して生きてきたのに今だにユダヤ人というアイデンティティーを維持していられるのはひとえに律法を守ってきたからだ」と言っていることからも伺えます。またその富の力と文明の力でかなり世界を動かし支配しているのではないでしょうか。

二十世紀のユダヤフロイトは「モーセ」という本を書いていますがその中で「我々ユダヤ人にとってモーセが特別な存在なのではないか。彼に指導されることにより我々は理性的な存在になったのだ。そしてモーセはエジプトの神官か何かだったのではないか。」というような意味のことを言っていますよね。

私も旧約の記述からファラオの血を引く人間ではないかと思いました。つまりモーセは自分の宗教がエジプトの王室に受け入れられなかったので、奴隷であったユダヤ人に目をつけのだと思われる。そう考えると色々と辻褄が合う。

あの時代被支配者であったユダヤ人にとつてはモーセのささやきは大変に魅力的だったでしょうね。「私が君たちを指導してあげよう。私の神を信じてその教えを守れば君たちは絶対に滅びることはない。必ず世界の支配者になれる。」と言われたら奴隷の地位にいた人たちは相当に心を動かされるでしょう。このままでいるよりついて行ってみようと考えるのではないでしょうか。

私はいわゆる反ユダヤ主義ではありません。反モーセです。モーセの神は天地の主宰者ではなく、従ってイエス・キリストの示す神でなく、またアブラハムの神でもないという見識です。パウロの書簡にもあるように罪が増し加わるためのものです。

また悪魔がイエスを誘惑するくだりで「悪魔は世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、【もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう】と言った。すると、イエスは言われた。【退け、サタン、、、、】」というところがありますが、このサタンがモーセの神です。(続く

異端とされたマルキオン

私がアダムとイブが犯した罪について前回書いたような仮説を思いついた理由は、宗教に関しての私の見解やキリスト教への疑問点などがいくつか重なったからです。

「文明は人間の優れた特性ではなく、アダムとイブの罪によるもの」「イエス・キリストも文明をバビロンの大淫婦(偽の女神)にたとえて否定している」「バビロンはチグリス川、ユーフラテス川の近くであること」「旧約の冒頭にある【地に満ちて地を従わせよ。、、、生き物をすべて支配せよ。】のことば。神がこのようなことを言うわけがないとの思い。ある旧約本には、地を服従せしめよ、とあった。」「モーセヨシュアの神はキリストの神とあまりにも違う」「マルキオンという初期クリスチャンが【旧約の神とイエス・キリストが示す神は違う】と言っていたこと」などです。

マルキオンという人はキリストの十字架から約100年後に教団を形成した人でルカ福音書パウロの書簡を拠り所にしたそうです。そして旧約の神とイエス・キリストが示す神は違うと言って、パウロの書簡もすでに書き換えられたところがあると見て自分で直したりしたそうです。

彼の主張は正統派に受け入れられず、批判され異端とされてしまった。その批判の一つに「イエス・キリストが示す神は創造神ではないと言うのか」のような意味の言葉が残っているそうですが、マルキオンはそんなことは言っていないと思う。

またマルキオンはグノーシス派とも違うと思う。グノーシス派はこの天地の創造神は下級の神でイエス・キリストの神はそれとは別の至高神としていますよね。

マルキオンはイエス・キリストの神を創造神と考えていたに相違ないと思われる。彼の正式な言葉は一つも残っていないのに何故そう言えるかというと、彼の一番の高弟の正式な言葉が残っていることです。それによるとその高弟は「旧約の神は創造神ではなく天使の一人」と言ったとのこと。

マルキオン派は異端とされた後もかなりの期間存続したがやがて消滅してしまったようです。(続く