私がブログを始めた理由は二つあります。
まず、人生の意味目的が解ったからにはそれを世間に公開してみる価値は十分あると思ったからです。もし生きる意味があるのなら誰でもそれを知りたいのではないでしょうか。
よく「そんなこと知りたいと思わない」とか「知らなくとも生きていける」と言う人がいます。しかしこれはいくら考えても、また生命に関する色々な本を読んでも、どうしても納得するまでは行かないからこのような発言になってしまうのだと思います。
私も、前に言いましたように、あとの時代に何かを残すという考えにいくらか希望を持ったものの、結局は「意味など無い」が結論でした。
それも仕方ないですよね。人間のいのちとか心に一番くわしい小説家でも、ある人は「なぜ生まれなぜ死んでいくのか。これは永遠の謎であるが」と言ったり、別のある人は「最近は誰にも共通の人生の目的などは無いと思うようになった。人生の目的というのは人それぞれが目的を作って、それに向かって生きて行く、そういう目的だと思う。」というようなことを言っています。極端な人になると(宗教方面の学者ですが)「なんのために生きるのか、などと問うのは問うこと自体が間違っている。」とまで言っています。
社会的に一流の人、影響力のある人がこのように言うのだからほとんどの人が人生には意味などないと思うのは無理がないですよね。
それと私の場合、弱肉強食という現象も意味が無いと思う理由の一つでした。
しかし今の私ははっきりと人生には意味目的がある、決して永遠の謎ではないと主張します。
自分で考えてこの答えを見つけたのではありません。大乗仏教の経典にはそれらのことが書かれています。また仏教の偉大な教師、法師達はそれを説明しています。
インドの龍樹や唯識派の無着や世親、中国の禅の達人たちは大乗の仏典を正しく理解して説明していると思います。
ただもう一つわかりにくいのですよね。仏典は難解で神秘的な言葉が多いし、インドの法師たちも哲学的な用語でその理論を簡潔に表現しているのでその解説書を読んでももう一つわからないんだと思います。中国の禅僧も多くの意味深いことばを残していますが、全体的な体系的な解説はされていないので、生きる意味を説明しているとまでは思えないのでしょうね。
私も勉強の途中でこれらの巨匠たちの解説書を読みましたがほとんどわからなかったです。それでもそれらの重要そうなことばを参考にしながら勉強をどんどん進めて行き、仏教が示す「生命観」「自然観」を納得するまでになりました。
そしてですね、だいぶ経ってから巨匠たちの解説書を読み直してみたら、今度は非常にわかるところがありました。全部ではありませんが重要と思われるところがわかったのです。どのように生きるのが良いのか、とその理由です。しかも宗派や人により使う用語は違いますが、どれもが同じ内容を示していると思います。
それで自信がつきました。私の仏教理解が決して独善的なものではないとわかったからです。
今でも禅問答はほとんどわからないし、龍樹の論理ももう一つです。また唯識の識転変の詳細な理論もよくわかりません。しかし基本的な仏教の生命観は正しく理解できたと思っています。
それでですね。私にはこの巨匠たちのような豊富な哲学用語や厳密な理論を使いこなすことは到底できませんが、比較的わかりやすいことばで、しかも一応理論的に説明できる気がしました。難解な哲学用語が苦手の私が難しい言葉を使わずに仏教が言っている人生の目的を説明すれば多くの人が共感してくれるのではないかと思ったのです。だからこのブログを始めました。
しかも人間だけでなくあらゆる命が同じ目的で生まれてくるというのが仏教の教えです。日本の古来からの八百万神の崇拝と基本的に同じであり、だから神仏が習合したのだと思います。この辺はまた後で話をします。