kosame21のブログ 人生の目的

なぜ生まれなぜ死んでいくのかは決して永遠の謎ではありません。仏教はそれを説明しています。その具体的な説明を第一回「人生の目的」(2021.9.07)から第四十三回「新しい時代に向けて」までに書きました。どうぞ読んでみてください。

たましいについて

ではそろそろ本題の「人生の目的」について具体的に話して行きたいと思います。前回ごく簡単に説明しましたがそのくわしい話です。

その前に言っておきたいことがあります。日本に伝わった仏教の経典はほとんどが大乗仏典であり、経典により中心の仏の名前が異なりますが、どれもこの宇宙の主宰者と言って良いと思います。阿弥陀仏、久遠の仏、ビルシャナ仏、大日如来などです。

仏教を学んで行くうちに、中心の仏はどう見ても人格神的なこの宇宙の主宰者としか思えませんでしたし、更に教学的なことを理解するにつれ、神という存在を考えた方が心や世界のあり方がはるかに理にかなっていると思うようになりました。昔は自然現象は自然に起こるのだから不思議でもなんでもないと思っていましたが、よく考えて見るとあまりにも不思議なことが多いです。

神と言うとそれだけで話を嫌う人が多いようですが、どうぞ思い直してみてください。祖先の人たちは常に神を探求していました。この辺のことはまた後で書いてみるつもりです。あと仏教は決してインドの宗教というものではありません。世界の宗教です。

 

では話を戻します。

「たましいが豊かになる」ということばがなぜ良いかというと二つの理由があります。

まず始めにあらゆる命に適用できるからです。人間だけに意味があるという考えは多くの人が、それはちょっと?と思うのではないでしょうか。仏教は地上に生きるもの一切の有情はすべてが仏の子、永遠のブツダの子供であると言っています。

もう一つは世界中の人が多分知っていることばだからです。仏教にはたましい、霊魂ということばはありません。アラヤ識、如来蔵がそれに当たると思いますが仏教用語を使うとわかりづらくなるので、一貫してたましい、霊魂で話をしていきます。

あと私はたましいと霊魂を全く同じものと定義して話しますので了解願います。違うとすることもできるのですが、同じ方がまぎれが少ないような気がするのでそうします。

 

前回「たましいが豊かになる」ことについて簡単に説明しましたが、もうひとつはっきりしないと思います。いくつかの問題点を考えてみましょう。

まず第一に、豊かになるとは具体的にどういうことなのか。二番目に、どのようなことをしたときに豊かになるのか。三番目に、そもそもたましい、霊魂とはどのようなものなのか。霊魂の構成です。

あともう1つ、たましいは死んでそのあとどうなるのかですね。これは前回で言いましたように、死んでも無にならない、が私の今の考えです。仏教が示しているあの世、安楽浄土へ往くのだと思います。彼岸に渡る、到彼岸ということばが何回も出てきます。

ただし、仏教の言う浄土や彼岸は他の宗教の天国やあの世とは少し違うようです。

キリスト教イスラム教は、救われた人間がその個性を持って天国で永遠に生きる、という考えですよね。そういう霊魂不滅の思想です。

仏教はあの世に往生したら個性はなく、永遠のブッダに吸収されてしまうと言っているようです。たとえてみれば、永遠のブッダの一つの細胞になるようなことかもしれません。

面白いことに一般の日本人の宗教、産土神崇拝、氏神崇拝は仏教に似ています。それによると、たましいは死後しばらくの間清められる期間を経て産土の神に吸収されていき、その時にはもう個性のようなものは無くなるそうです。

ギリシャの哲人ソクラテスも死んだ後どうなるかについて言っています。「死んだあと二つの可能性がある。一つは無になるのであり、これは夢も見ないくらいぐっすり眠るのと同じことでこれも良し。あと一つは昔から言われているようにあの世という世界があってそこに行くとすればそれも良い。あの世に行ったら昔の賢人に会っていろんな質問をしてみたい。」というようなことを言っていました。

このことばは死についての二つの本質的なことに触れていると思います。「ぐっすり眠る」と「あの世」です。

神、永遠のブッダが、ぐっすり眠る、永遠の安らぎに入る、完全な涅槃に入る、という想いを込めて肉体的な死を示しているのだと思います。そして地上での活動は終わりだけどあの世に行く。どちらも宗教的な真実であると言えます。

ただソクラテスは個性的なたましいのままあの世に行くと考えたようです。その点仏教を学んだ私は違う見方です。