死後どうなるかについてあと一つ言っておきます。いわゆる転生のことです。
「自分は前世には戦国時代、豊臣秀吉に仕えて戦死した武士であった。」とか「私は前世においてあるエジプトの王女のもとで侍女として、、、」のような話をよく聞きます。
このように個性を持った霊魂が何度でも生まれ変わって転生するという考えは間違っていると私は思います。仏典にも「生まれ変わって、、、」とか「来世には」という表現がありますが、いわゆる転生とは違うことを表現しているのだと思います。このことは後でまた説明します。
では次の話、三つの問題点に移ります。
まずはじめに三番目の「霊魂の構成」の話をします。なぜかと言うと、これがわかっていないと、どうしてもあとの二つのことがわかりにくくなってしまうからです。
たましいはどんな要素から成り立っているのかをある程度定義しておかないと聞く方も説明する方ももう一つはっきりしないことになってしまいますので。
それで、その霊魂に対する考え方ですが、これは仏教が一番正しく説明していると私は思います。仏教は一つの霊魂を一つの霊とは考えません。多くの霊から成り立っていると考えます。しかも様々な種類の霊から成り立っているものとします。
普通は誰それの霊と言うように霊と霊魂を同じものとして表現していますよね。ソクラテスの霊とかプラトンの霊とか。
仏教は違います。霊と霊魂は異なるものとします。多くの霊が集まったものが霊魂であると。この点は初期仏教から大乗仏教に至るまで一応同じ考えです。
つまり仏教の開祖のブッダは、肉が食べたいという霊とコメが食べたいという霊は違う霊だと考えました。また水が飲みたいという霊も違う霊だし、スポーツをやりたいとかお風呂に入ってさっぱりしたいとかパズルを解いてみたいとかそれぞれが違う霊だと捉え、固定されたような人格は無いと「無我」を主張しました。
これが他の宗教と異なる仏教の大きな特徴です。しかしそうだとするとなぜ我々という意識にならないのかという疑問が出てくると思います。これは少しあとで説明しますが、それとは別に現代の脳の科学者で仏教に近いことを言っている人がいます。「脳の中を調べて行くと我ではなく我々なのだ」と。
つまり誰もが本当は多重人格者なのです。普通の人でも「自分は多重人格だ。」と言っている人が結構います。その時々により自分の気性があまりにも違うのでそう思うのでしょうね。多重人格症害の人はある人格の時は他の人格の時の記憶がないようです。過去の事件のトラウマから逃れるために他の人格になりきる、とか聞きますが。
普通の人も多重人格なのですが、統制がとれているから自分の記憶として思い出せるのです。二重人格の人も六重人格の人もその一人一人の人格がまた多くの霊から成り立っていると言えます。無数人格です。
たとえて言えば、カラオケの会場でその時の歌い手の歌を聞きながら今度は自分が意識という舞台に上がって歌うぞ、とやる気満々の人たちのようなものでしょうか。
この意気盛んな霊が悟りを目指す迷いの霊です。それら無数の迷いの霊が無意識の世界で渦巻いていて、時に応じて意識の世界に出てきてマイクを手にし、好きな歌に酔いしれて舞台裏に去る、そんな感じです。
霊というのは「こころを所有する存在」のことで決して怪しげな観念ではなく、昔から言われているように適切な表現であると私は考えます。
さて時に応じてと言いましたがそれは意識界に上がって迷いをなくしたい、救われたい、悟りを得たいと願っているからです。
潜在意識の世界にも意識に近い層から非常に深い層まであり、結論から言いますが一番奥にあって迷いの霊の願いをかなえてやろうとしており、しかし表面には決して出てこない霊が「神」です。ヒンズー教ではアートマンと言い、大乗仏教では仏、阿弥陀仏、永遠の本仏、大日如来、無我の大我と言ったりします。この宇宙の主宰者です。ここは初期仏教と大きく違うところです。
ということはすべての霊魂の奥底は皆同じ神でつながっているということです。丁度どくだみという草や竹などは地上では一本一本別の個体に見えるけれど、地面の下では皆同じ根茎でつながっていますよね。これはすぐには信じられないかもしれませんが、そういうものかと思って話の続きを聞いてください。
ここで気をつけてほしいのは、普段の意識上の自我は神ではなく迷いの霊だということです。よくクマも神であり人も神であると言いますがもう一つ違うのです。地上に生きるものは神の子と考えたほうが良いと思います。
そうするとですね。しばらくして多分二つの疑問が浮かんでくると思います。ひとつは「神はなぜ奥の方にいて我々の意識で直接に知ることができないのか。なぜ隠れているのか。」です。もう一つはあらゆる生き物が同じ神でつながつているとすると「なぜ神はこの世界で無数に分かれて異なった姿で存在するのか」という疑問です。
これには理由があります。仏教で言う「方便」すなわち「教えの方法・救いの手段」として神はそうしているのです。このことはまた後で説明します。多分納得できると思います。