これまでの話でたましいを豊かにするためにはその時々の感覚や感情が大切であることをわかってもらえたと思います。それも正しい感情ですよね。他を好きになったり、愛したり、尊敬したり、称賛している想いです。
この観点から私は今の学校でのいじめ問題を非常に憂慮しています。かなり以前から問題になっており、相当にひどいらしいですね。集団で一人を攻撃し自殺にまで追い込む場合もあるとか。
いじめは昔からありましたがこれほどひどくなった原因はテレビだと私は考えています。まるでいじめ番組と言えるようなものを、相当前にですが、やっていました。日曜日にです。見ていた者の中には学校で試してみようと思う者もいたでしょうね。やってみたところ効果があり自分が強者になったような気がして段々エスカレートして行ったんだと思います。それが悪しき伝統として今に至るまで続いているのでしょう。
いじめというのは他人に嫌がらせをして相手が困って、苦しんで、悲しむ、それがうれしいということです。これは大変に罪深い邪悪な行為です。
いじめ行為と弱肉強食の現象は全く異なります。以前インターネットでいじめを批判する人に対して「お前らな、いじめを非難しているけど弱肉強食を見てみろよ。」というようなことを何人かが言っていました。
弱肉強食の現象においては追う方も救いを求めています。このことについては後であらためて説明しますが、神が作り出した深い意味のある現象で、決して神の心に反したやり取りではありません。どちらもが救われます。
それに比べていじめは神の心に対する反逆の行為です。いじめをやっている人たちに言いたい。
「人生には意味目的がちゃんとあるのだぞ。なぜ良い生き方を求めないのだ? 友達を苦しめて喜ぶなどという腐ったようなことをしていたらこの世に生まれて来た甲斐がないではないか。生きる意味と真逆だぞ!」
いじめをしていたらそのような他を排斥する霊は救われません。少し前の話で、暴力的な霊が救われるためには相手に暴力を振るってしまっては駄目だと言いました。相手をいとしいと想い、しっかりと抱きしめることにより救われるのですよね。
ではこのいじめ行為の元になっている暗い迷いの霊はどのような時に救われるのでしょうか。
たとえば相手が喜ぶようなことをしてやって相手が喜んでいるのを見て自分も喜ぶ。この時に暗い迷いの霊が救済されて彼岸に到っているのです。そこまでいかなくともたとえば友達が何かに成功して喜んでいるのを見て一緒に喜ぶ。または友人に対して尊敬の気持ちをいだく。あるいは一緒に楽しく遊ぶ。あるいはまた一緒にいるだけでも何となく安心感がある。というように程度の差はあれそれらが神を信仰している姿で、生きる意味に通じる行為です。
好意とか敬意などの他を肯定する感情が大切です。人に限らずどうしても相性が悪いと感じた時は離れるかなるべく出会わないようにすればそれで済みます。
今いじめをやっている人。どうぞ立ち直ってください、神はこれからの良い行為や良い想いは必ず受け入れてくれると思いますよ。